清史紀事本末湘軍水軍の編制(湘軍水師之編制)
太平天国鎮圧における湘軍水師創設の経緯。咸豊二年、武昌攻防で水軍不在の弱点が露呈したことに始まり、曾国藩が衡州で商船を改造した長脣寛舷船を試作、褚汝航らが長龍・快蟹・三板船を整備して水師を編成した。咸豊四年の湘潭・田家鎮の戦いを経て湘軍水師は天下にその名を轟かせ、彭玉麟・楊岳斌が中心となって拡充、最終的に大江水師として制度化されるまでの咸豊二年から同治五年にかけての約15年間。
年表(4件)
- 咸豐二年(1852年CE)冬武昌攻防で水軍不在の弱点が露呈、湖北巡撫が水師配置を求める
- 咸豐三年(1853年CE)曾国藩が湖南で水軍整備に着手するも手本なく苦心する
- 咸豐四年(1854年CE)湘潭の戦いで湘軍水陸軍が太平軍を破り田家鎮陥落で水師の名が高まる
- 同治五年(1866年CE)曾国藩の水師章程が『方略』に収められ制度が確立
咸豐二年(1852年CE)冬
- 湖北巡撫常大淳が上疏し、太平軍が水陸両面から武昌を攻め船砲が多数であることを指摘、江南軍中の広西砲船・江南水師の広艇砲船・中小号砲船を長江上下流に配置して敵勢を阻み糧運を断つよう求めた。督師徐広縉らに実行が命じられたが、当時は水師の名ばかりで実際には船がなかった。
咸豐三年(1853年CE)
- 秋七月、幇弁江南軍務の湖北按察使江忠源が両湖・四川に分けて戦船を造らせ江面を清めるよう上奏し、許可された。
- 各地は商船の改造や外洋の快蟹船の借用など間に合わせの策に頼らざるを得ず、成果は乏しかった。督臣葉名琛が調達した広州の戦船は重すぎて長江に入れず、上海道の呉健彰が夾板船三隻を雇い海路から長江に入れるにとどまった。
- 五月、太平軍が北は淮河を渡り南は南昌を包囲すると、御史黄経が呉・楚・蜀三省に砲船を造らせ水師を訓練するよう求め、湖南にも指名があったが、巡撫駱秉章は財力不足を理由に据え置いた。
- 江忠源は曾国藩と江南・安徽方面の大局を論じ数百隻の戦船建造を議したが実現困難であった。のちに編修郭嵩燾が忠源に従って南昌を守る中、太平軍が船を根拠地とすることを見抜き、長江の要害を争わねば勝てないと力説、忠源に代わって上疏の草稿を書き、湖北・湖南・四川に各二十隻の戦船を造らせ広東から巨砲十門を購入するよう求め、許可された。
- 九月、幇弁湖南団練侍郎の曾国藩に兵勇船砲を派遣し湖北を援護するよう詔があった。国藩は長沙から衡州に移り水軍を整備しようとしたが手本がなく、古法に倣った筏に砲を載せる案や大型艦の建造を試みるも操船が難しく、援軍催促の文書が日々届く中で逗留していると疑われた。国藩は「敵は江湖を縦横に支配しており船なくして争えない、出師するなら東征し帰らぬ覚悟で臨むべきだ」と嘆いた。水師守備の成名標が広東の快蟹三板船の作り方を伝え、国藩自身の工夫も加えて商船を改造した長脣寛舷の船を試作、発砲しても揺れないことを確認したが、経費が足りず、広東省の協餉銀八万両を留用する上奏を行い、水兵四千・船二百隻(五百石から千余石まで、砲は二百斤から三千斤まで)を興した。
水師の編成整備
- 広西同知褚汝航が敬修に代わり長龍船建造を統括、国藩は成名標に衡州の造船を任せ、湘潭に分廠を設けて汝航に統括させた。長龍船五十、快蟹四十、三板船百五十を造り、船制はおおむね整ったが確立した規則はなく試行錯誤の産物であった。
- 壮丁を募って水戦を習わせ、儒生・農民や陸営の官弁を営哨官に任じた。編成は快蟹・長龍各一、三板船八隻を一営とし、槳手・櫓手・艙長・舵手・篙手・砲手など計三百八十八人で一営を成した。武器は刀盾槍矛もあったが実際には船首尾に砲を置き旋回して撃つのが主であった。布陣は間隔を疎らに取り小船は洲に沿い大船は流れを横切るよう配置し、暴風での衝突を避けた。
咸豐四年(1854年CE)
- 春三月、曾国藩が衡州から出兵し湘潭に軍を集結。戦艦二百四十、輜重砲船百三十、輜重民船百、水軍五千、陸師十三営、水陸あわせて一万七千人という盛大な陣容であった。
- しかし総督呉文鎔が功を急いで先に出撃し敗死、湖北水師は潰散。太平軍は洞庭湖から上陸して寧郷を襲うも湘軍水師に遭って退いた。その後岳州を回復するも大風で船が壊れ死傷者多数、陸軍も長沙へ敗走。太平軍は靖港・湘潭を攻めるが、国藩の全軍が湘潭に迫る中、塔齊布が先に湘潭で勝利を収め、水陸あわせ八日十戦全勝、敵舟を焼き斬獲多数、太平軍は城を捨てて逃走した。
- 山東登州総兵陳輝龍、広東遊撃沙鎮邦、道員李孟羣らが水軍を率いて来会し勢力はさらに増したが、輝龍は彭玉麟・楊岳斌の南津での勝利に気を良くして自ら城陵磯を攻めようとし、湘軍側の警告を聞かず出撃、敵の伏兵にあって拖罟大船が座礁、砲船を失い戦死した。褚汝航・夏鑾・沙鎮邦も救援に赴き溺死、この戦いで数百人が戦死し船三十余艘を失った。
- 彭玉麟・楊岳斌が要害を死守して敵の進撃を防ぎ、国藩は残存の船を収拾、俞晟を汝航の後任とし唐際盛の助力も得て体制を立て直した。塔齊布の陸軍が各地で戦功をあげ城陵磯の敵塁を陥落させると、水軍も勝ちに乗じて長江に入り東西岸の敵塁・砲台を破壊、螺山・倒口・黄益湖などを制圧し嘉魚・蒲圻を回復、武漢を攻略した。以後太平軍は湘軍水師の来襲を聞くと戦意を失い撤退するようになった。
- 太平軍が田家鎮に大軍を集結させると、彭玉麟・楊岳斌が水陸合同で大破し、田家鎮陥落後、湘軍水師の名は天下に轟いた。朝廷はその戦法を江南北の水軍に示すよう命じたが、他省の水師は船の性能や士気の問題で成功しなかった。一方、湖南の在籍官紳丁善慶・陳本欽・唐際盛・李㮣らが出資して船局を設け、黄冕が砲の製造を専管し、船砲の技術は湖南が他を圧倒した。
湘軍水師の拡充とその後
- 楊岳斌の統べる十営、彭玉麟の統べる八営を合わせ、戦船五百・砲二千に達した。国藩は父の喪に際し岳斌を総統、玉麟を協理に任じるよう奏請、以後も戦勢は有利に進み、多少の挫折はあっても最終的に勝利を収め、九洑洲を破って長江・金陵を平定するに至った。論功では舟師創設が第一とされた。
- 国藩はこれを機に募集した水勇を正規の水兵に改編するよう奏請。大江水師の船は千余隻、砲は三千に及び、提督一員、総兵五員、営官・副将・参将・遊撃二十四、哨官・都司・守備・千総・把総・外委七百七十四、兵員数万二千を数えた。荊州・岳州から崇明まで五千余里に六標を分立し、七百七十四隻・二十四副将営・四十三参将営・二十三遊撃営を編成、提督から外委まで各人に坐船・長龍を与え、大砲・三板砲を備え、火薬局を安徽・湖北の省城に、子弾局を湖南省城に、船局を漢陽・呉城に設置した。
同治五年(1866年CE)
- 六月、軍機大臣曾国藩が編成した水師章程六巻が『方略』に収められ天下に頒布された。制度が確立し黄翼升を提督とし、彭玉麟には毎年一度長江を巡視するよう命じられた。
史論(編者曰)
- 太平天国が平定された後、朝廷は曾氏の功績を舟師創設を第一に挙げたが、水師の中で最も功績があったのは彭玉麟と楊岳斌であった。二人の生涯における志操は曾氏兄弟と通じるものがあったが、彭玉麟が一生封疆の重任を好まず辞退し続けたことには、何か含むところがあったのではないかと編者は問いかけている。