清史紀事本末湘軍陸軍の編制(湘軍陸師之編制)
太平天国討伐のため曾国藩が湖南で組織した湘軍陸師の編制過程を描く。咸豐二年(1852年)の団練委任から、咸豐四年(1854年)の東征に至る営制の確立を扱う。史論では、湘軍の勢力拡大がやがて朝廷に警戒され、曾国藩が晩年自ら封爵の返上と権限縮小を願い出た経緯にも触れる。
年表(2件)
- 文宗
- 咸豐二年(1852年)曾国藩が団練を委ねられ湘軍編制に着手した
- 咸豐四年(1854年)曾国藩が水陸軍を率い一万七千の兵で東下した
文宗咸豐二年(1852年)
- 冬十一月、丁憂中の侍郎曾国藩に、湖南本省で団練事務を手伝うよう命じた。湖南団練の始まりは道光二十四年、新寧挙人江忠源が郷里が広西と接し傜民・盗賊が多いことから兵法で郷人を組織したことに遡る。二十七年には傜民雷再浩の蜂起を鎮圧し、これが湖南郷勇の初の実戦功績となった。
- 咸豐元年三月、太平天国が金田から象州へ北進すると、朝廷は大学士賽尚阿を派遣し、江忠源も従軍を命じられた。忠源は五百の郷勇(楚勇)を率いて出陣、当初は正規軍から見下されたが、敵営に迫って数百を斬るなど戦果を挙げ、湖南郷勇が省外で戦功を立てた最初の事例となった。しかし正規軍の妬みを買い連携が得られず、忠源は病を理由に帰郷した。
- 曾国藩が団練を委ねられた際、当初は母の喪を理由に固辞したが武昌陥落の報を受け長沙に至り巡撫張亮基とともに防備を整えた。「団練の難しさは資金調達にある」「湖南の兵は形骸化しており訓練こそが要務」として、省城に大規模な団練を組織し壮健な農民を募集する策を上奏。また会党(串子・紅黒・辺銭香会等)が跋扈する現状を憂い、厳刑をもって取り締まる方針(従来見逃されてきた命案・強盗・結盟の類は巡撫の権限で即座に正法とする)を建言、十旬で二百余名を処刑し「曾剃頭」と渾名されるほど苛烈に内訌を鎮めた。十二月からは召募制の新軍編成に着手、既存の官兵を用いず士人・農民のみで営を編制、明の戚継光の兵法書を参考に三百六十人一営を基本単位とし、羅澤南・王鑫・鄒寿璋・塔斉布・周鳳山・儲玫躬・曾国葆らがそれぞれ営を率いた。これが湘軍陸師編制の始まりで、国藩は将来的に六千人規模、江忠源軍と合わせ一万の義軍とすることを目指した。
咸豐四年(1854年)
- 春三月、総督呉文鎔の敗死で湖北軍が黄州で潰滅すると、曾国藩は水陸軍を統率し東下した。営制を改め塔斉布・周鳳山・儲玫躬・林源恩・鄒世琦・鄒寿璋・湯名声・曾国葆らを配し、水師と合わせ一万七千の兵で出陣した。その編制は、一営に営官一人を置き前後左右四哨に分け、各哨に哨官を配置、営官直属の親兵六隊(劈山砲・刀矛・小鎗を組み合わせ計七十二人)、各哨は擡鎗・刀矛・小鎗の八隊編成(一哨百八人、四哨で四百三十二人)、営全体で営官・親兵を含め五百四人。武器編成は劈山砲二隊・擡鎗八隊・小鎗九隊・刀矛十九隊の計三十八隊。輜重・軍装・糧食の運搬には長夫(一営あたり合計百八十名)を配し、大要百人につき長夫三十六名の比率とした。軍装・帳幕も細かく規定され(営官用十帳、哨官用三帳など)、行軍は一日三四十里を目安に黎明出発・未の刻に宿営、宿営地には壕・土牆を築き便所や火薬庫まで規格化するなど厳格な野営規律を敷いた。これは正規軍の「勝てば譲らず敗れれば助けぬ」弊風を正すため、曾国藩が「万衆一心・万人一気」を掲げ、上下の序列と規律、民への配慮を重視した結果であり、湘軍は次第に強兵となった。後に太平天国討伐の主力となり、武昌・黄州の奪還、江州攻略、安徽・江蘇浙江への進出を経て南京陥落まで大功を立て、さらに南は交趾、北は承徳、東は潮汕、台湾出兵、西は天山・玉門・大理・永昌にまで及ぶ威勢を示した。後年、曾国藩は湘軍の消耗を見て淮上の気風の強さに着目、門人李鴻章に淮軍を組織させ、湘軍の精鋭を範として後に捻軍平定に用いた。
史論(編者曰)
- 湘軍が東下した際、文宗(咸豐帝)は曾国藩一人に水陸両軍を統率させることを憂い、貴州提督布克慎や総督台涌に応援を命じた。武漢・黄州が平定されると文宗は「一介の書生がこれほどの功を立てるとは」と喜んだが、祁寯藻は「一民間人が一声で万余人を動員するのは国家にとって福ではないかもしれない」と警戒を促し、文宗は顔色を変えて黙り込んだ。同治初年には彭蘊章も湘軍の勢力が天下に広がり曾国藩の権力が大きすぎることを憂い、湘軍削減・曾氏の権限縮小を繰り返し進言した。東南平定後、捻軍討伐で僧格林沁が敗死すると穆宗(同治帝)は再び曾国藩に出師を命じたが、既に湘軍は解体されており曾氏は淮軍と徐州募兵で対応、大小数十戦に勝利し捻軍勢力を衰えさせたものの、言路(言官)からはなお度々弾劾を受けた。御史阿凌阿の驕慢との訴えもあり、曾国藩は憂慮の末に自ら封爵の返上と閑職への転出を願い出た。世人は湘軍の平苗・平回の功をもって「曾氏の暮気(衰え)」説を否定するが、実際には曾国藩の後悔は既に遅く、その郷里の後進もこれを教訓として自らを律することがなかったのは惜しむべきことである。