清史紀事本末各省の叛乱(各省之叛亂)
嘉慶初年に湖北で白蓮教徒の蜂起が起こり乱は五省に拡大、貴州・湖南の苗族の乱と並行して長期化したが、和珅処刑後の方策転換や額勒登保・楊遇春らの活躍で嘉慶七年に平定された。以後も海賊蔡牽の討伐、天理教の乱の平定など各地の反乱が続いた記録。嘉慶元年から二十三年まで。
年表(15件)
- 嘉慶元年1796年湖北荊州で白蓮教徒が蜂起し乱が五省に拡大、苗族の乱も並行
- 嘉慶二年1797年総統が宜緜から勒保に交代するも渡江を防げず
- 嘉慶三年1798年教匪の首魁斉王氏・姚之富が三坌河で敗死、王三槐が投降
- 嘉慶四年1799年和珅処刑を機に方策を改め鎮圧が進み始める
- 嘉慶五年1800年劉之協が捕らえられ処刑、皇帝が寛容策を示し局勢が鎮静化
- 嘉慶六年1801年楊遇春が王廷詔らを捕縛、川陝の賊がほぼ掃討される
- 嘉慶七年1802年額勒登保が残匪平定を報告、九年に及んだ戦役が終息
- 嘉慶十一年1806年陝西寧陝の新兵が反乱、楊芳の説得で降伏するも不当に処分される
- 嘉慶十二年1807年李長庚が海賊蔡牽を大破するも戦死
- 嘉慶十四年1809年邱良功・王得禄が蔡牽を撃破し自沈させ海路を平定
- 嘉慶十八年1813年天理教徒が滑県で蜂起し紫禁城にも侵入するが平定
- 嘉慶十九年1814年長齢らが箱賊を平定、江西の朱毛俚の企ても発覚し処刑
- 嘉慶二十年1815年四川瞻対の乱、新疆カシュガル孜牙敦の乱を平定
- 嘉慶二十二年1817年雲南臨安の高羅衣の乱を伯麟が平定
- 嘉慶二十三年1818年高羅衣の甥・高老五の乱を伯麟が平定
嘉慶元年(1796年)
- 湖北荊州で白蓮教徒が蜂起し、巡撫恵齢が鎮圧にあたった。白蓮教は治病を名目に民衆を惑わし財を集める邪教で、安徽の劉松が教主格として摘発され甘粛へ流されたが、弟子の劉之協・宋之清らが川陝・湖北一帯に布教を広げ、河南鹿邑の王発生を明の末裔と偽称して煽動を図った。発覚後は多くが処刑されたが劉之協は逃亡し、官の過剰な捜索が却って民の反発を招き、宜都の張正謨・枝江の聶傑人らが蜂起、乱は五省に広がった。同時期、貴州・湖南の苗族の乱(石柳鄧・石三保・呉半生・呉隴登・呉八月ら)も続いていた。
- 荊州総兵富志耶が聶傑人を捕らえ、姚之富・王氏(斉林の妻)が新たに蜂起した。冬、教匪が瀼河を渡り、提督永保は罪に問われ恵齢が総統に。苗の首領らは相次いで捕らえられ、呉隴登は投降した。
嘉慶二年(1797年)
- 恵齢が更迭され陝西総督宜緜が代わったが、姚之富・李全・王延詔らの渡江を防げなかった。総統は勒保に交代した。
嘉慶三年(1798年)
- 将軍明亮が斉王氏の渡江を防げず投獄。都統徳楞も罷免。教匪は三坌河で大破され斉王氏・姚之富は投身死した。参賛額勒登保が羅其清・冉文儔を討ち、川北の主力を平定した。勒保も林亮功を討ち、王三槐が投降。三槐の「官逼民反」の供述に皇帝も心を動かされた。
嘉慶四年(1799年)
- 勒保が経略大臣に任じられた。皇帝は教匪拡大の原因が和珅の意向を受けた将帥の私利追求にあると見抜き、和珅を処刑し、方略を改め、投降者への寛容策や兵の待遇改善を進めたことで鎮圧が進み始めた。
- 勒保は達州で消極策に終始したため罷免され明亮に交代、さらに額勒登保が経略に、那彦成が監軍として派遣された。
嘉慶五年(1800年)
- 徳楞泰が四川馬蹄岡で冉添元を大破し捕縛した。雷士玉ら首魁も殲滅された。河南で劉之協が捕らえられ処刑。皇帝は「教に従った者は問わず、逆に従った者のみ罰する」方針を明示し、局勢は鎮静化した。
嘉慶六年(1801年)
- 陝西提督楊遇春が西郷の両河口で敵将王廷詔らを捕縛した。額勒登保の指揮で川陝の賊はほぼ掃討された。
嘉慶七年(1802年)
- 額勒登保が川陝残匪の平定を報告した。首魁苟文明も討たれた。九年に及んだ戦役は軍費二億両に達したが、四川では新たに新兵の反乱が起こった。
嘉慶十一年(1806年)
- 陝西寧陝の新兵が反乱を起こした。減給措置への不満が原因であった。徳楞泰が派遣されたが、名将楊芳が単騎で説得し降伏させたにもかかわらず、皇帝は徳楞泰を専断として罷免し、芳も伊犁に流されるという不当な結果となった(減給を強行した文官は処罰されなかった)。まもなく四川綏定・陝西西郷でも同様の兵変が起きた。
嘉慶十二年(1807年)
- 浙閩水師提督李長庚が南澳洋で海賊蔡牽を大破したが、自らも戦死した。蔡牽は同安出身で、ベトナム阮朝の後ろ盾を得て活動を拡大し、七、八年にわたり跳梁した。長庚はしばしば勝利しながらも上官の忌避で戦果を活かせなかった。台湾攻撃を撃退した後、新任総督阿林保の卑劣な提案を長庚は拒絶し、決死の戦いで蔡牽をほぼ捕らえかけたが、部下の裏切りで長庚は戦死し、蔡牽は取り逃がされた。
嘉慶十四年(1809年)
- 浙江提督邱良功・福建提督王得禄が漁山外洋で蔡牽を撃破した。牽は自沈して死し、海路は平定された。良功・得禄は長庚の部下で、その仇を討った。しかしその後まもなく天理教の乱が起きた。
嘉慶十八年(1813年)
- 滑県で天理教徒が蜂起し県城を占拠、県令強克捷が殉死した。天理教は白蓮教の流れを汲む一派で、河南の李文成・直隷の林清が指導し、彗星の出現などを利用して蜂起の時期を煽動した。県令の予防的な捕縛が却って早期蜂起を招き、直隷・山東の各地に乱は波及した。
- 教匪は紫禁城にも侵入したが、皇次子旻寧が防戦し首謀者林清らは捕らえられ処刑された。皇帝は自らの不徳を詔で悔い、群臣の怠慢も叱責した。
- 直隷総督温承恵が更迭され那彦成が代わり、楊遇春とともに李文成の拠点道口を攻略、文成は自焚死した。滑県も陥落し牛亮臣らが処刑され、乱は平定された。
嘉慶十九年(1814年)
- 長齢らが箱賊(陳四・尹朝貴ら)を平定した。江西では朱毛俚が明の末裔を騙り「後明」を称して蜂起を企てたが発覚し処刑された。
嘉慶二十年(1815年)
- 四川瞻対の反乱を鎮圧した。新疆カシュガルの回民孜牙敦の乱を平定した。
嘉慶二十二年(1817年)
- 雲南臨安の高羅衣の乱(漢人商人の排斥を名目に窩泥王を自称)を総督伯麟が平定した。
嘉慶二十三年(1818年)
- 高老五(羅衣の甥)の乱を伯麟が平定した。