清史紀事本末嘉慶の中衰(嘉慶中衰)

嘉慶帝が親政を開始し和珅一派の粛清や制度の引き締めを進めたが、河川の氾濫・旱害・アヘン流入・獄事の不正など内政の弛緩が続き、清朝衰退の兆しが表面化した時期を描く。嘉慶四年から二十四年の崩御までの実録的な記録。

年表(21件)

嘉慶四年(1799年)

  • 帝親政。貢物の献上を停止し、玉禁を緩和した。密奏は軍機処を経ずに直達させることとした。
  • かつて和珅の不正を弾劾した曹錫宝に副都御史の位を追贈。宗室の会試復活。
  • 内閣学士だった尹壮図を給事中に任じたが、洪亮吉は上書の中に不敬な言辞があったとして伊犁へ流された(後に死一等を免ぜられた)。
  • 各省の官員の役得搾取や刑具の乱用を禁じた。
  • 湖北軍需の横領で襄陽道胡斉崙を絞殺した。教匪討伐で既に七千余万両の軍費を費やしていた。国子監祭酒法式善は上奏の言葉遣いで皇帝の不興を買い降格された。

嘉慶五年(1800年)

  • 日食。旱害により獄事を清理。京への直訴の罪を厳罰化。上奏の取り扱い手続きを厳格化した。

嘉慶六年(1801年)

  • 科挙答案での隠語使用を禁止。匿名文書への処罰を厳格化。大雨で宮門が浸水し永定河・桑乾河が氾濫、皇帝は自らの不徳を詔で悔い、秋の巡幸を停止した。

嘉慶七年(1802年)

  • 雲南維西の傈僳族の蜂起を琅玕が鎮圧した。番役の子孫の出仕・受験を禁止。安徽宿州の匪徒の乱を平定した。

嘉慶八年(1803年)

  • 内務府の廚役成徳が皇帝の行幸列に切りかかろうとして捕らえられ処刑された(黒幕は不明のまま処理された)。尚書彭元瑞が没した。河川の氾濫、衡工への捐納開始などが記された。

嘉慶九年(1804年)

  • 大学士劉墉が没した。父劉統勲以来の名門で、乾隆朝で刑部の獄に一度も下らなかった希有な大臣一族として知られた。

嘉慶十年(1805年)

  • 大学士王杰が没した。和珅と同列にありながら是非を曲げず、和珅失脚に功があった。協弁大学士紀昀(『四庫全書』総纂官)が没した。西洋人徳天賜が布教の罪で幽閉され、関係者六十余名が伊犁に流された。永定河の氾濫、蚩尤旗の出現などの異変。都統額勒登保が没した。不識字だが『三国演義』を通じ兵法を学び名将となった清廉な人物として知られた。

嘉慶十一年(1806年)

  • 死刑を免れた者の減刑・釈放制度を制定。浙江・江蘇からの米の海外流出を禁止。大学士朱珪が没した。帝師として重んじられ、人材登用に尽力した。

嘉慶十二年(1807年)

  • 旱害による獄事清理。地方官による違法な拷問の禁止。甘粛大通県の反乱を平定した。

嘉慶十三年(1808年)

  • 直隷の軍流刑を減免。運河の氾濫。武科挙の改革(策論廃止、武経暗写に変更)。天壇齋宮の火災。

嘉慶十四年(1809年)

  • 総管内務大臣広興を絞殺した。かつて和珅弾劾で名を上げたが、後に地方審案での不正が発覚し処刑された。関係者数十名が連座した。福康安の子貝子徳麟が父の生前の不正を理由に処罰された。西安将軍徳楞泰が没した。教匪討伐の功績で知られた。山陽県で振済米の横領事件が発覚、関係者が処刑された。浙江学政劉鳳誥が試験不正で流刑となった。山西布政使劉清(四川で賊二万を降し民心を得た名臣)が総督勒保の嫉視で左遷された。

嘉慶十五年(1810年)

  • 河運の弊害により海運を試行。アヘンの持ち込み監視を強化。山西の大旱害。永定河の氾濫、河南の堤防決壊。

嘉慶十六年(1811年)

  • 旱害による獄事清理。天体異変(星芒・白虹)が記録された。

嘉慶十七年(1812年)

  • 軍流刑の犯人による直訴を全て処罰対象とする規定を定めた。断髪の流言を上奏した御史栄春を降格。督撫に拷問取り締まりを命じた。

嘉慶十八年(1813年)

  • 満漢の婚姻を禁止。浙江の生員鮑廷博(蔵書家)に挙人位を賜った。アヘン密売の禁止と服食の処罰規定を制定。挙人の大挑制度を整備した。

嘉慶十九年(1814年)

  • 捐納制度を再開した(豫東例)。楮砂使用の提案を却下。増設された名糧を削減した。

嘉慶二十年(1815年)

  • 官箴を頒布。四川瞻対の反乱を平定した。両江総督百齢が匿名文書事件を摘発した功で加封された。山西・河南の地震。清茶門教(白蓮教の一派)の摘発と各省への取り締まり指示があった。

嘉慶二十一年(1816年)

  • 秋の木蘭狩猟を清朝の家法として継続することを厳命し、反対意見を封じた。両江総督百齢が没した。清廉で長く不遇だったが晩年に重用された人物として記される。

嘉慶二十二年(1817年)

  • 河工への人員配置制度改定。旱害による獄事清理。科挙制度の一部改定。大学士松筠が翌年の盛京行幸に反対して降格。宗室の海康・慶遙が邪教(白蓮教系)の罪で絞殺された。

嘉慶二十三年(1818年)

  • 大学士董誥が没した。父董邦達とともに書画に長じ、長く南書房に仕えた人物として記される。

嘉慶二十四年(1819年)

  • 兵部の印章紛失により盛京将軍松筠らが処罰された。皇帝は避暑山荘の行殿で崩御し、皇次子智親王緜寧(旻寧)が即位を命じられ、翌年を道光元年とした。享年六十一、廟号仁宗。