清史紀事本末内禅(譲位)の真相(內禪之真相)
乾隆帝が在位六十年に達し予告どおり嘉親王顒琰に譲位し嘉慶帝が即位したが、太上皇帝として引き続き軍国の大事に関与し続けた実情を描く。乾隆帝崩御を機に嘉慶帝が和珅を弾劾・処刑するに至る。乾隆六十年から嘉慶四年までの5年間。
年表(5件)
- 乾隆六十年1795年皇十五子顒琰を皇太子に立て翌年の譲位を宣示
- 嘉慶元年1796年授受の大典が行われ嘉慶帝が即位、太上皇帝が実権を保持
- 嘉慶二年1797年皇后喜塔臘氏が崩御、鈕祜禄氏が皇后に立てられる
- 嘉慶三年1798年上皇に随い木蘭行幸、日食などの異変が記録される
- 嘉慶四年1799年上皇崩御を機に嘉慶帝が和珅を弾劾し処刑する
乾隆六十年(1795年)
- 皇帝は皇十五子嘉親王顒琰を皇太子に立て、翌年を嘉慶元年とすることを宣示した。即位当初、六十年在位できたら譲位すると天に誓っていた。もともと嫡出の次子永璉を継嗣に定めていたが早世し、諡して端慧太子とした。七子永琮も候補としたが幼くして没し悼と諡した。三十八年の南郊祭祀では太子の名を天に告げ、もし不適格なら早世させるよう祈った。今回改めて立太子の経緯を布告し、正月一日に授受の儀を行うことを宣言。歸政後も軍国の大事には引き続き関与することを表明した。
- 帰政後の上奏文書は「太上皇帝」の名で扱うよう命じた。
嘉慶元年(1796年)
- 正月朔、授受の大典が行われ、太上皇帝が帝璽を親授し、帝は跪いて受けた。上皇の伝位詔書が天下に頒布された。
- 帝は皇子・親王らを宴に招き、嫡妃喜塔臘氏を皇后、鈕祜禄氏を貴妃、劉佳氏を誠妃などに冊立した。千叟宴を催し、諸王・大臣・外藩・外国使節らを招いた。
- 二月から乾清門で聴政を開始し常例とした。三月には上皇に随い謁陵、五月に木蘭行幸した。
- 上皇の命で、故大学士閩浙総督福康安が郡王に追贈され太廟に配享された。康安は苗族討伐で長年戦を長引かせて贅を尽くしたが、上皇の寵愛により王爵を得るに至った経緯が記された。
嘉慶二年(1797年)
- 皇后喜塔臘氏が崩御した。帝は上皇への孝養を重んじ服喪を簡素にした。和珅・福康安らは上皇に、帝が悲しみを抑え礼に適っていると報告し、上皇は喜んだ。
- 上皇に随い盤山に行幸。貴妃鈕祜禄氏を皇后に立てる勅諭が下った。
- 木蘭行幸。乾清宮交泰殿が火災に遭った。
嘉慶三年(1798年)
- 上皇に随い木蘭行幸した。雨のため秋の狩猟を停止。日食や星が乱れ流れる異変が記録された。
嘉慶四年(1799年)
- 上皇が崩御し、和珅・福康安が獄に下された。帝は在位三年間、政務を上皇に委ねていたが、和珅の専横を見抜きながらも表面上は厚遇し、密かに監視していた。上皇崩御の翌日、御史広興・広泰、給事中王念孫らが和珅を弾劾し、帝は直ちに逮捕を命じ、和珅は処刑された。