清史紀事本末巡遊の無度(巡游之無度)

乾隆帝が在位六十年の間、南巡・東巡・西巡や木蘭での狩猟を繰り返し、太后奉侍や孔廟参拝を名目に諫言を退けて巡幸を続けた経緯を描く。皇后の死や諫臣の左遷を伴いながら、供応の負担が民を苦しめ清朝衰運の一因となったと編者は評す。乾隆六年から五十九年までの巡幸の記録。

年表(30件)

乾隆六年(1741年)

  • 皇帝が太后を奉じて木蘭で狩猟。御史叢洞が諫めたが聞き入れられず、以後毎年七月に木蘭へ行き秋・冬に帰京する慣例となった(以後は逐一記さない)。
  • 当初、蘇州の風光を慕い南巡を望んだが、大学士訥親の視察報告(見どころは乏しく、街並みは狭く不衛生)を受けて一旦断念した。

乾隆八年(1743年)

  • 太后を奉じて興京・盛京に行幸した。

乾隆十年(1745年)

  • 太后を奉じて多倫諾爾に行幸した。

乾隆十一年(1746年)

  • 太后を奉じて西巡し、五台山に行幸した。堯母の諱を避けて慶都県を望都と改称した。

乾隆十三年(1748年)

  • 太后・皇后を奉じて東巡。曲阜で孔林に謁し、泰山に登った。済南で太后の閲兵に随った。
  • 帰途、皇后富察氏が舟遊びの夜、皇帝を諫めた際に激しい言葉を受け、悲しみのあまり誤って水に落ち死去した。皇帝は深く悔い、遺骸を親しく奉じて帰京し、手厚く葬った。

乾隆十五年(1750年)

  • 太后を奉じて西巡、五台山。冬には河南へ行幸し中嶽廟に参拝、嵩山に登り、開封で閲兵した。

乾隆十六年(1751年)

  • 太后を奉じて南巡。蘇州・杭州で閲兵、銭塘江を渡り禹陵を祭った。江南諸生を試して進士に取り立てた。泰山で東嶽を祀った。
  • 老臣顧棟高が経学の功で招かれたが老病を理由に辞退。皇帝が「また江南に来た折には会おう」と言うと、棟高は「上はまた南巡なさるのですか」と問い、皇帝は黙した。

乾隆十八年(1753年)

  • 江西撫州の千総盧魯生とその子、南昌衛守備劉時達が処刑された。かつて大学士孫嘉淦が直言で名声を得ていたが、魯生らはその名を騙り南巡を諫止する偽の上奏文をでっち上げて広め、大臣を誹謗した。事件は数年をかけて発覚し、七、八省に及ぶ千人近くが連座した。嘉淦自身も心労のうちに没した。

乾隆二十一年(1756年)

  • 東巡して孔林に謁した。準噶爾平定を孔廟に告げるためであった。

乾隆二十二年(1757年)

  • 太后を奉じて南巡、蘇州・杭州・江寧、闕里で孔廟を祀り、木蘭で避暑した。皇帝は例年四、五月に熱河で避暑・狩猟し、八、九月に帰京する慣例だった(以後は記さない)。

乾隆二十四年(1759年)

  • 木蘭滞在中、避暑山荘の壮麗さを自賛したが、内大臣博爾奔察に「宮中は避暑と言えても、市中の民家は狭苦しく暑さに苦しんでいる」と皮肉られ、不機嫌になった。

乾隆二十六年(1761年)

  • 太后を奉じて西巡、五台山。太后の七十歳の祝いに、万寿寺のそばに江南風の街並み「蘇州街」を作らせ、模擬の商店で遊興した。祀竈の日には自ら鼓板を打ち歌を歌う慣習もあった(嘉慶年間まで続いた)。

乾隆二十七年(1762年)

  • 太后を奉じて南巡。京口・焦山・蘇州・杭州・江寧を巡り、曲阜で孔林、泰山で岱廟を祀った。

乾隆二十八年(1763年)

  • 木蘭行幸中、大雨で増水した河を渡ろうとしたところ、按察使三保が「太后の御輿はどうするのか」と諫め、皇帝は思い直した。

乾隆三十年(1765年)

  • 太后を奉じて南巡。蘇州・杭州で天台・雁蕩山への行幸を望んだが、侍郎斉召南が老母への孝を理由に案内を固辞したため取りやめた。焦山・江寧を巡り江神を祭った。

乾隆三十一年(1766年)

  • 皇后那拉氏が没し、妃の礼で葬られた。前年南巡中に皇帝が微行に出ようとしたのを皇后が涙ながらに諫めたことから皇帝の不興を買い、以後皇后は廃されるに近い扱いを受けた。刑部侍郎覚羅阿永阿が諫言して黒竜江に流され、御史李明玉も三年の喪を求めて伊犁に流された。両名とも辺境で没した。

乾隆三十二年(1767年)

  • 天津に行幸した。

乾隆三十五年(1770年)

  • 太后を奉じて東巡した。

乾隆三十六年(1771年)

  • 太后を奉じて東巡、金川平定を孔廟に告げた。泰山に登り孔林に謁した。

乾隆四十一年(1776年)

  • 太后を奉じて東巡。泰山に登り孔林に謁し、山東・各省の召試生に科挙資格を与えた。

乾隆四十三年(1778年)

  • 盛京に行幸した。

乾隆四十五年(1780年)

  • 南巡。焦山・蘇州、海寧で観潮、杭州・江寧を巡った。

乾隆四十六年(1781年)

  • 東巡、五台山に行幸した。

乾隆四十八年(1783年)

  • 盛京に行幸した。和闐玉で新造した歴代の冊宝を旧冊宝とともに盛京太廟に納めるためであった。

乾隆四十九年(1784年)

  • 南巡。曲阜で孔林に謁し、金山・焦山・蘇州・海寧・杭州・江寧を巡り、渡江して帰京した。

乾隆五十一年(1786年)

  • 西巡、五台山に行幸した。

乾隆五十三年(1788年)

  • 天津に行幸した。

乾隆五十五年(1790年)

  • 東巡。泰安・泰山・曲阜・孔廟孔林。途中涿州で、僧が「履郡王永珹の子」と称する少年を伴い出迎えたが、審理の結果偽りと判明し僧は処刑、少年は伊犁に流された。後に別人が同様の偽称で処刑された。

乾隆五十七年(1792年)

  • 西巡、五台山。木蘭避暑中、警備の不備で随行の王大臣らが処分された。

乾隆五十九年(1794年)

  • 天津に行幸した。津淀の龍舟のため銀三万両を賜った。

史論(編者曰)

  • 康熙帝は治河を名目に六度南巡し、乾隆帝もこれに倣い南巡六度・東巡七度・西巡五度を行った。加えて盛京・興京や近畿への行幸も数知れず、在位六十年間ほぼ毎年、春に東南巡幸、秋に木蘭で狩猟する慣例が続き、譲位後も同様だった。行幸先では減税や学額増加などの恩恵もあったが、供応の負担は民を苦しめた。
  • 諫言する臣は厳しく処罰された。編修杭世駿は巡幸の弊害を論じて重罰されかけたが赦免され、尹会一は南巡の民の困窮を訴えて叱責の上左遷、侍読学士紀昀は財政窮乏を諫めて叱責された。内閣学士尹壮図の訴えも結局黙殺された。以後、群臣は口をつぐみ、民のために進言する者もなくなった。国力は浪費され、清朝の衰運の一因となった。