清史紀事本末ジュンガル・回部の平定(準部及回部之平定)
乾隆二十年の準噶爾出兵とダワチ捕縛から、阿睦爾撒納の反乱・討伐、乾隆二十三年以降の回部(天山南路)平定へと続く経緯を扱う。阿睦爾撒納の病死、大小和卓木の抵抗と黒水営の包囲戦を経て、乾隆二十四年の回部完全平定までの5年間。
年表(5件)
- 乾隆二十年(1755年)両路の軍がダワチを捕らえ伊犂を平定するも阿睦爾撒納が反乱
- 乾隆二十一年(1756年)達爾党阿を定西将軍とし阿睦爾撒納再挙に対処
- 乾隆二十二年(1757年)兆恵・成袞札布の大討伐で阿睦爾撒納が敗死、準噶爾平定
- 乾隆二十三年(1758年)大小和卓木が回部で独立を図り、雅爾哈善の討伐が失敗
- 乾隆二十四年(1759年)兆恵が黒水営の包囲を脱しカシュガル・ヤルカンドを平定、回部平定
乾隆二十年(1755年)
- 春、尚書班第を定北将軍・阿睦爾撒納を定辺左将軍として北路より、陝西総督永常を定西将軍・薩拉爾を定辺右将軍として西路より準噶爾へ出兵させた。乾隆四年の準部との和議後、静穏だった情勢は噶爾丹策零の死とその後の内乱を機に変化し、宰桑薩拉爾や台吉三車稜、輝特台吉阿睦爾撒納らが相次いで内附、清朝はこれを嚮導に大挙討伐を決断した。雍正九年の和通泊の敗北を懸念する廷臣を大学士傅恆が抑え、准部の大将瑪木特も帰順したため出兵に至った。
- 夏、両路の軍が伊犂に至り準噶爾汗ダワチ(達瓦齊)と青海の首長ロブザン・ダンジンを捕らえ、伊犂を平定した。侍衛阿玉錫の夜襲により敵陣は崩壊、ダワチは回部方面へ逃亡したがアクス(阿克蘇)の首長ホジェスに捕らえられ献上された。
- 冬、阿睦爾撒納が反乱、将軍班第・参賛容安が戦死し薩拉爾は捕えられた。準部はもと四衛拉(部族)に分かれ各汗を戴いていたが、清朝は事後にも四汗制を維持する意向であった。しかし阿睦爾撒納は自ら四部の総台吉となることを望み、密使を用いて策動、朝命が遅れる間に叛意を固め、額林沁を欺いて逃走、伊犂と西路の軍台を煽動して蜂起させた。将軍永常は迎撃できず、班第は自殺。事態を受け色布騰は爵位剥奪、額林沁は賜死、永常は逮捕され、策楞が定西将軍として派遣された。
乾隆二十一年(1756年)
- 夏、策楞を罷免し達爾党阿を定西将軍とした。策楞軍が吐魯番に至った際、脱出した薩拉爾から阿睦爾撒納の所在を知らされたが、参賛玉保が誤情報に基づき進軍を怠り、策楞が策楞にその功を誤って上奏する失態があった。阿睦爾撒納はその隙にハザク(哈薩克)から戻り再挙、和托輝特部の青滾雑布も呼応して四部が動揺した。帝は策楞・玉保を罷免し達爾党阿・富徳を任じ、兆恵を右副将軍、成袞札布を左副将軍として青滾雑布討伐に当たらせた。
乾隆二十二年(1757年)
- 夏、兆恵に西路、成袞札布に北路を任せ準噶爾を大討伐した。諸部の内訌と痘瘡(天然痘)の流行が重なり清軍は連戦連勝、阿睦爾撒納は再びハザクへ逃れたが、汗アブライに追われロシア領へ逃亡し痘瘡で病死、その遺骸は恰克図経由で清朝に引き渡された。以後、清軍は山谷・河川流域の残存勢力を四年にわたり掃討し、二十余万戸・六十余万人が徹底的に討たれたという。事後、満洲駐防を設置し漢兵を移して開墾させ、伊犂将軍を置いて統治する満洲の植民地とした。
乾隆二十三年(1758年)
- 春、雅爾哈善を靖逆将軍とし回部(天山南路)を討伐した。回部はもと元の後裔の汗が統治していたが、後に準部の勢力下に入っていた。阿睦爾撒納の敗死を機に、大和卓木(波羅泥都)・小和卓木(霍集占)は独立を図って諸城を戒厳させ、庫車の首長鄂対だけが従わず伊犂へ逃れた。清朝が派遣した招撫使阿敏道は霍集占に欺かれ庫城に幽閉ののち殺害された。
- 秋、雅爾哈善を罷免し納木札爾を靖逆将軍とした。雅爾哈善の庫車攻めは進捗せず、性急な地道戦術が敵に察知され士卒六百人が水攻めで全滅、降臣鄂対の伏兵策も採用されなかった。城内の駝の鳴き声から敵の脱出を察した老兵の報告も酒宴中の雅爾哈善に一蹴され、結局霍集占は西門から脱出、追撃も遅れて逃がした。事後、雅爾哈善・順徳訥・馬得勝は処刑され、納木札爾が代わり兆恵に合流するよう命じた。
乾隆二十四年(1759年)
- 秋、兆恵がカシュガル(喀什噶爾)・ヤルカンド(葉爾羌)二城を平定した。烏什に至った兆恵は敵の分裂(波羅泥都は喀什噶爾、霍集占は葉爾羌)を知り、葉爾羌城東の黒水営に布陣したが、兵糧を求めた渡河作戦で橋が落ち、総兵高天喜ら多数の将が戦死、以後三ヶ月にわたり食糧も尽き苦戦を強いられた(黒水営の包囲戦)。将軍納木札爾・参賛三泰も途上で戦死したが、富徳の援軍とアリグン(阿里袞)の夜襲で敵は潰走、兆恵と合流し軍を立て直して両路から喀什噶爾・葉爾羌を攻略、二和卓木は逃走しともに回復した。
- 八月、抜達山(バダフシャン)の首長素爾坦沙が霍集占の首級を献じ、回部は平定された。富徳らが伊西洱庫河で敵を撃破すると降兵が続出し、霍集占・波羅泥都はバダフシャンへ逃れたが素爾坦沙に捕らえられ処刑された。波羅泥都の首は従者に奪われたが霍集占の首は献上され、回部は完全に平定された。
史論(編者曰)
- 天山南北の戦役は広大な領域を切り開き多数の敵を討ったが、五年に及ぶ従軍と国帑三千万両の消耗を招いたのは、君主が武功を好んだ結果であり、国家の資力と人命の犠牲を顧みなかったためである。困難な相手でもなかったにもかかわらずこの犠牲を払ったことは、開拓事業の容易ならざることを示すものである。また、霍集占の妃であった香妃について、高宗(乾隆帝)はその美貌を聞き、兆恵に生きたまま連れ帰らせ西内に住まわせ香妃楼を建てた。異国情緒あふれる街並みを模して寵愛したが、香妃は屈せず常に懐に刃を隠して旧主の仇討ちを望んでいたという。太后(鈕祜禄氏)はこれを恐れ、高宗が円丘祭祀で斎宮に籠った隙に香妃を慈寧宮に呼び出して縊死させた。高宗は間に合わず慟哭し妃の礼で葬らせたと伝わる。この逸話は達県の呉徳潚・湘潭の王闓運らの文集に見えるため付記する。