清史紀事本末青海・ジュンガルへの用兵(青海及準部之用兵)

雍正元年から十二年にかけての青海・準噶爾方面での軍事行動を扱う。青海のロブザン・ダンジンの反乱鎮圧から、準噶爾との開戦・和通泊の大敗・厄爾得尼昭の勝利を経て、乾隆年間まで持ち越される講和に至るまでの過程。

年表(7件)

雍正元年(1723年)

  • 秋、青海のロブザン・ダンジン(羅卜藏丹津)が挙兵して内地に侵攻したため、川陝総督年羹堯に迎撃を命じた。青海は康熙三十七年以来中国に内属し準部への抑えとなっていたが、ダンジンは自らを顧実汗の嫡孫と称して青海・西藏の旧領回復を志し、諸部に和碩特の旧号を復させ、自ら達頼渾台吉を号して統率、準噶爾の策妄阿喇布坦とも密約して連合を図った。従わない額爾得尼・察罕丹津らは帝の下へ逃れ、ダンジンはこれを追撃、黄河を渡るに至った。
  • 冬、年羹堯を撫遠大将軍とし西寧に駐屯させ、岳鍾琪を参賛軍務とした。ダンジンは沙拉図を拠点とし西寧近郊を攻め、青海理事大臣常寿らを捕えて幽閉した。年羹堯は北の布隆吉河、南の巴塘・裏塘を固め、準部との連絡を断つなど包囲網を敷き、ダンジンの度重なる侵攻を撃退した。ダンジンは常寿を返して和を請うたが帝は許さなかった。

雍正二年(1724年)

  • 春、奮威将軍岳鍾琪の軍が沙拉図に迫り、ダンジンは逃走、その家族を捕えて青海は平定された。鍾琪は分進策を退けて急襲策を進言し、わずか十五日で目的を達した。功により鍾琪は三等公、年羹堯とその父は一等公・太傅に叙せられた。

雍正七年(1729年)

  • 春、内大臣公傅爾丹を靖辺大将軍として北路、川陝総督公岳鍾琪を寧遠大将軍として西路より準噶爾へ出兵させた。ダンジンが亡命した策妄阿喇布坦が没し子の噶爾丹策零が継いだのを機に開戦を主張する張廷玉らと、時期尚早とする朱軾・沈近思らが対立したが、朝廷は開戦を決した。都統達福の諫言(新君の下で兵は結束しており、遠征は不利との論)は退けられ、傅爾丹が出師した。

雍正八年(1730年)

  • 夏、岳鍾琪・傅爾丹を召還し、侍郎杭奕禄らを準噶爾使者特磊に同行させて和議を試みさせた。準部の申し出を信じた帝は進軍を一時停止させたが、後に西路の卡倫が襲撃され、総兵樊廷らが辛くも撃退する事件が起きた。この際、軍紀の乱れから紀成斌らが部下を処罰し内紛が生じ、のち総督査郎阿の讒言で岳鍾琪も罪に問われるという後日談がある。

雍正九年(1731年)

  • 夏、傅爾丹は和通泊で大敗し、副将軍馬爾賽らが戦死した。準部の大策零敦多布の偽計にかかった傅爾丹は諫言を退けて進軍、和通淖爾で包囲され、蒙古兵の敗走を機に全軍が潰乱、多数の将帥が戦死・自殺した。帝は「達福の言を聞かなかったことを悔いる」と嘆き、傅爾丹を降格、馬爾賽を新たな大将軍とした。

雍正十年(1732年)

  • 秋、額駙策凌が厄爾得尼昭(光顕寺)で準部を大破した。前年の和通泊の勝ちに乗じ喀爾喀へ侵入した敵を策凌が鄂登楚勒河で撃退したのに続き、小策零郭多布の急襲軍を厄爾得尼昭で撃滅した。しかし策凌の援軍要請に応じなかった馬爾賽の閉門策により敵将は逃走、事件後に馬爾賽と副将李杖は処刑され、錫保は王爵を剥奪された。

雍正十二年(1734年)

  • 秋、準噶爾征討を停止し、侍郎傅鼐・学士阿克敦を派遣して和議を進めた。策凌の慎重な対応と経略鄂爾泰の「準部平定は益少なし」との具申により撤兵が決まり、北路は鄂爾坤河へ、西路は哈密・巴里坤へ退いた。康熙五十六年以来十六、七年・軍費七千余万両を費やした末の講和である。ただし乾隆年間、準部内乱に乗じて再び遠征軍が発せられることになる。