清史紀事本末諸儒の出処と学問の概略(諸儒出處學問之概)
康熙十四年(1675年)の孫奇逢没から宣統元年(1909年)の厳復登用に至る約230年間、清代の儒学者・学派の出処進退と学問の系譜を概観する。孫奇逢・李顒・顧炎武・黄宗羲ら明の遺民学者から、恵棟・戴震ら乾嘉考証学の呉派・皖派、さらに龔自珍・魏源の今文学、康有為・梁啓超・譚嗣同ら変法派、厳復の西学翻訳に至るまでの学統の変遷を辿る。
年表(11件)
- 康熙十四年1675年孫奇逢没、陸王・朱子の説を通じさせた理学の一派を成す
- 康熙十八年1679年博学宏儒に推薦された李顒・傅山・杜越がいずれも辞退する
- 康熙二十年1681年顧炎武没、黄宗羲・王夫之ら明の遺民学者が併記される
- 康熙四十三年1704年閻若璩没、『尚書古文疏証』で偽古文尚書を論証
- 康熙四十四年1705年梅文鼎が皇帝に召見され天文・数学の書を論じ合う
- 乾隆二十三年1758年恵棟没、呉派・皖派の経学対立が語られる
- 道光二十二年1842年龔自珍没、今文経学で思想の自由を鼓吹
- 光緒二十四年1898年康有為が召見され変法を推進、戊戌政変で六君子処刑
- 光緒二十九年1903年王闓運が江西学堂総教習に招聘される
- 光緒三十三年1907年兪樾の学行を国史儒林伝に列することが詔される
- 宣統元年1909年厳復が進士を賜り編訳名詞館の事務を命じられる
康熙十四年(1675年)
- 夏、容城の処士孫奇逢(字鍾元)が没した(享年九十二)。明の万暦庚子挙人で、若くして東林の士人と交わり気節を重んじた。学問は陸象山・王陽明の説を宗としつつ朱子の説とも通じさせ、理学の一派を成した。周敦頤・程顥程頤・張載・邵雍・朱熹・陸九淵・薛瑄・王陽明ら十一人を「十一子」として顕彰した。
- 国変後は易州五公山に隠れ、後に蘇門に移り子弟と耕作しながら学問を講じ、多くの門人を集めた。前後十一度の徴召にも応じなかった。子の博雅も隠逸として名高く、文孝先生と称された。
- 学派を同じくする学者として李顒・傅山・顧炎武・黄宗羲・王夫之・顔元・劉献廷ら、また祁州の刁蒙吉、山陰の劉汋、無錫の高世泰、余姚の沈国模、朱学専修の陸世儀・張爾岐・張履祥・応撝謙・謝文洊・李生光・朱用純らが挙げられ、皆各々の学統を尊びつつ門戸の争いはなかったとされる。
康熙十八年(1679年)
- 春、博学宏儒に推薦された李顒・傅山・杜越はいずれも赴任を辞退した。
- 李顒(字中孚、号二曲)は関学の再興を志し、陸九淵・慈湖・王陽明・陳献章の書に心性の学を学び、程朱や呉与弼・薛瑄・呂柟の書で実践を補うべきと説いた。度重なる召命を病と称して固辞し、絶食して抵抗するほどであった。門人に王心敬(号澧川)がおり、その学を継いだ。
- 傅山(字青主)は山西陽曲の人で、国変後は道士姿で母を養い天地を観じて暮らし、宋儒の学については距離を置いた。召命を強く拒み、死をもって拒否する構えを見せたため、詔により試験免除で放免され中書舎人を加えられたが、これを深く恥じたという。
- 杜越(字君異)は容城の人で、明の諸生として郷里で教授し、召しに応じて上京したものの、傅山とともに中書銜を加えられたのみで、病を理由に帰郷した。
康熙二十年(1681年)
- 春、明の遺臣顧炎武(字寧人、号亭林先生)が没した(享年六十九)。江蘇崑山の人で、国変後は挙義に加わり、後に各地を遊歴して明の孝陵・思陵に参拝を重ね、陝西華陰に住んで軍事的要衝の地の利を説いた。
- 大学士熊賜履らの明史編纂への推薦にも節を守って応じなかった。『日知録』は一代の学術の源となり、『天下郡国利病書』『肇域志』『音学五書』『金石文字記』などの著作も後世の学者に重用された。
- 同時代の黄宗羲・王夫之・顔元・劉献廷とともに「四(五)志士」と称された。
- 黄宗羲(字太沖、号梨洲先生、余姚の人)は明末に義兵を挙げ、日本への支援要請にも赴いたが、晩年は著述に専念。『明儒学案』は三百年の儒林史の集大成であり、『明夷待訪録』の民権論的思想はルソーの民約論にも比すべきものとされる。律呂・数学の著作もあり、梅文鼎に影響を与えた。康熙三十四年没(享年八十六)。
- 王夫之(字而農、号船山先生、湖南衡陽の人)は永暦朝に仕え、明滅亡後は隠棲して『正蒙注』『思問録』『読通鑑論』『宋論』『黄書』などを著し、天人の理と民権の理を説いた。
- 顔元(字習斎、直隷博野の人)は武勇を好み、実践躬行の学を説き、程朱とは一線を画す『存性』『存学』『存治』『存人』の四篇を著した。門人に李塨・王源がいる。
- 劉献廷(号継荘)は経世の学を主とし、地理・音韻の学にも通じ、『広陽雑記』を残した。
- 他にも唐甄(著『潜書』)、陳確(史書の編纂)、胡承諾、顧祖禹(『読史方輿紀要』)ら実学系の学者が併記される。
康熙四十三年(1704年)
- 夏、太原の処士閻若璩(字百詩)が没した(享年六十九)。『尚書古文疏証』を著し、東晋出現の偽古文尚書二十五篇を論証した。
- 同時代の経学者として、胡渭(『禹貢錐指』で地理の疏漏を正した)、萬斯大(春秋・三礼に精通)、萬斯同(史学に優れ明史編纂に尽力し、俸禄を受けず、著述は後に他者の名で刊行された)、馬驌(『左伝事緯』『繹史』)が並記される。
康熙四十四年(1705年)
- 夏、宣城の処士梅文鼎(字定九)が皇帝に召見された。天文・数学の書二十九種を著し、南巡の際に皇帝の目に留まり、御製暦算書を三日にわたり論じ合った。学統は薛鳳祚・王錫闡に発し、その学は後の『暦象考成』にも取り入れられたとされる。
史論(編者曰)
- 清初の諸儒は実践実用の学を重んじ、明末の空疎な議論の弊をほぼ絶った。
- 一方で魏象枢・熊賜履ら名臣を兼ねた名儒は結局門戸に囚われ、人材登用も卑俗化した。徐乾学は明史館・博学宏儒の徴召を利用して山林の隠逸を招き寄せ、忠義の士に節を全うさせなかったと批判される。
- 湯斌が明の旧将を欺いて殺し、李光地が友人陳夢雷を売って寵を得たことなど、表向き忠孝を説きながら実は欺瞞に満ちていたと厳しく非難する。毛奇齢についても、恩人を裏切り妻を虐げた不徳が指摘され、湯斌・李光地を「偽君子」、毛奇齢を「真小人」と評し、当時の学界の腐敗を嘆く。
乾隆二十三年(1758年)
- 夏、処士恵棟(字定宇、江蘇呉江の人)が没した。祖父周惕・父士奇の家学を継ぎ、経史・諸子百家・釈道二蔵にまで通じ、『九経古義』『周易述』『明堂大道録』などを著した。
- 経学は当時、恵棟を祖とする呉派と、戴震を領袖とする皖派に分かれていた。呉派の系譜には何焯・沈徳潜・沈彤・陳景雲、恵棟門下の江声・余蕭客・王鳴盛・銭大昕・王昶・汪中・劉台拱らがいる。
- 皖派の戴震(字東原、休寧の人)は江永に学び、『孟子字義疏証』『方言疏証』などを著し、文字の学を第一義とすべきと説いた。挙人として四庫全書纂修に召され、実際には『提要』の多くは戴震の手になるが紀昀の名で世に出たとされる。門人・後継として段玉裁・王念孫・王引之・兪樾・馬建忠、さらに郝懿行・桂馥・陳澧・馬瑞辰ら多くの学者が輩出した。
- 両派に対抗した桐城派の姚鼐(字姫伝)は方苞・劉大櫆の文章を継承したが、方東樹の『漢学商兌』による攻撃を受けつつも、学問の深さでは呉皖両派に及ばないとされる。
- また浙東派として邵晋涵・全祖望・章学誠がおり、王守仁・劉宗周・黄宗羲の学を私淑し、史学・明代掌故に精通した。
史論(編者曰)
- 乾嘉年間は経学が最も栄えた時期であり、呉派・皖派の経師の注疏は不朽の業績を残した。桐城派は程朱に依拠したが理学者とも経学者ともいえず、王懋竑や唐鑑らの朱子学派も影響力は限定的であった。浙東派は姚江・南雷(黄宗羲)の学統を伝えた点で意義が大きい。陳宏謀・楊名時・朱軾・李紱らの朱子学は学界に大きな影響を残さず、紀昀・阮元・畢沅らは漢学を鼓吹したが、多忙のため著述の多くは他者の手を借りており、独自の学派を成すには至らなかった。
道光二十二年(1842年)
- 秋、仁和の龔自珍(号定盦)が没した。段玉裁に小学を学び、劉逢禄に公羊春秋を受け、荘存与に発する公羊学を修めた。専制政体を痛烈に批判し、思想の自由を鼓吹した。同時代の魏源(『海国図志』を著し日本の佐久間象山・吉田松陰・西郷隆盛らを刺激したとされる)と並び「龔魏」と称された。他に李兆洛・宋翔鳳・邵懿辰・孫詒譲・皮錫瑞らが今文学者として名を連ねた。
光緒二十四年(1898年)
- 夏、工部主事康有為(字広厦、号長素)が召見された。朱次琦に学び、仏典にも通じ、孔学・仏学・宋明学を体とし史学・西学を用とする学問を唱えた。度重なる上書と強学会・保国会の結成により天下に名を知られ、この年、翁同龢らの推薦で総理各国事務衙門に登用され、変法を推進した。
- 戊戌政変により康有為は英艦で脱出したが、弟の広仁や門人の林旭・楊深秀・楊鋭・譚嗣同・劉光第ら「六君子」は処刑された。康有為は米国等で保皇会を組織し活動を続けた。
- 門人の梁啓超(字卓如、号任公)も公車上書や『時務報』主筆、湖南時務学堂の講席などで活躍し、政変後は日本に亡命して『清議報』『新民叢報』を刊行した。
- 譚嗣同(字復生、号壮飛)も新学を提唱し湖南の新政を推進したが、政変時に東遊を勧められても「流血なくして変法は成らぬ」として拒み、処刑された(享年三十三)。著書に『仁学』などがある。
光緒二十九年(1903年)
- 秋、江西巡撫夏時が湖南挙人王闓運(号湘綺先生)を江西学堂総教習に招聘。王闓運は『湘軍志』を著し曾国藩・左宗棠ら当時の将帥と交流を持ちつつも直筆を貫いたため一部から反発も受けたが、四川尊経書院など各地で長く講学した。門人に廖平(公羊学で康有為に影響を与えた)がいる。
光緒三十三年(1907年)
- 春、故翰林院編修兪樾(号曲園先生、浙江徳清の人)の生涯の学行を国史儒林伝に列することが詔された。多くの著述を『春在堂集』にまとめた。
宣統元年(1909年)
- 冬、遊学出身の厳復(字幾道)が進士を賜り編訳名詞館の事務を命じられた。ハクスリー『天演論』、アダム・スミス『原富』などを翻訳したことで知られる。同時代の数学者に李善蘭(『幾何原本』訳者)、華蘅芳(『奈端数理』訳者)がいる。
史論(編者曰)
- 中国の思想は久しく束縛されてきたが、龔自珍・魏源が今文経学によって思想の自由の道を開き、康有為・譚嗣同らがこれを継いで改革を唱えた。さらに厳復が西洋の新学を伝え、中国人の思想は大いに進歩した。これらはみな諸氏の功績に帰せられる。