清史紀事本末官制の改革(官制之改革)

康熙元年(1662年)から嘉慶八年(1803年)に至る約140年間、清朝の官制改革の推移を記す。地方総督・巡撫・布政使など地方官職の統廃合、内閣・南書房・軍機処の設置など中枢機構の変遷、冗官削減と機構簡素化の施策を通じて、康熙・雍正・乾隆・嘉慶の各代で官僚制度がどのように整備されていったかを辿る。

年表(27件)

康熙元年(1662年)

  • 江南省の上江・下江学道、湖広省の湖北・湖南学道をそれぞれ一員に統合。
  • 総督に兵部銜、巡撫に工部銜を加える制度を定めた。
  • 延綏巡撫を廃止した。

康熙二年(1663年)

  • 六部の漢人司官が内外の京堂官を兼ねる慣例を停止。
  • 苑馬寺卿の主簿・監正の定員を削減した。

康熙四年(1665年)

  • 湖広・四川・福建・浙江の四省は総督一員をそれぞれ存続させ、貴州総督は雲南に、広西総督は広東に、江西総督は江南に、山西総督は陝西にそれぞれ統合。直隷・山東・河南は総督一員が三省を管轄することとし、鳳陽・寧夏・南贛の各巡撫は廃止した。

康熙五年(1666年)

  • 満・漢の六科給事中をそれぞれ一員増設した。

康熙六年(1667年)

  • 河南など十一省の布政使をそれぞれ一員に統一し、左右布政使の名称を廃止。江南・陝西・湖広は布政使二員を残し各地に分駐させた。守巡道百八員、推官百四十二員を削減。
  • 戸部主事十員、工部主事七員を削減した。

康熙七年(1668年)

  • 茶馬巡視の差遣を停止。科道の欠員は有能な地方官から選抜して補充する制度を定めた。
  • 巡倉御史の差遣を停止。湖広総督を廃止した。

康熙八年(1669年)

  • 直隷・山東・河南の総督を廃止。
  • 挙人による知県選抜の旧制を復活させた。

康熙九年(1670年)

  • 河南分守河北道、分巡南汝道を復活。浙江の甯紹道・温台道・杭嘉湖道・金衢厳道を復活。湖広の岳常道・沅靖道・衡永郴道を復活。四川総督・湖広総督・福建総督を分置。江南・福建・江西の各道も相次いで復活させた。
  • 内三院を内閣に改称し、大学士の官銜を順治十五年の例に戻した。満・蒙・漢の学士・侍読・典籍の定員を整備した。

康熙十年(1671年)

  • 山西雁平巡道・河東守道を復活。日講官を新設し、満・漢の学士を増員(いずれも礼部侍郎銜を兼ねる)。
  • 貴州大黔威守道を復活させた。

康熙十二年(1673年)

  • 浙江駅伝道を復活。漢軍学士を漢缺に併合し定員四人とした。

康熙十三年(1674年)

  • 四川に総督・巡撫を各一員設置。江西総督を設置。江南徽甯道、浙江杭厳道、陝西南関守道を復活させた。

康熙十四年(1675年)

  • 詹事府衙門を復活させた。

康熙十五年(1676年)

  • 直隷各省の儒学教職を各一員増設した。

康熙十六年(1677年)

  • 南書房を設置した。

康熙十八年(1679年)

  • 広東・潮州水師総兵官を復活させた。

康熙十九年(1680年)

  • 四川永寧総兵官を復活させた。

康熙二十一年(1682年)

  • 江南・山東・陝西・浙江・江西・広東・広西・四川・貴州・雲南の各省で分守道・分巡道など多数の官職を廃止し、官制を簡素化した。

康熙三十二年(1693年)

  • 広西蒼梧守道、右江巡道を復活させた。

康熙三十七年(1698年)

  • 上林苑監の漢臨丞、および林衡・嘉蔬・良牧・蕃育四署の漢署丞をそれぞれ一員削減した。

康熙三十八年(1699年)

  • 満洲侍読二、中書五、蒙古中書三、漢軍中書五、漢中書八を削減した。

康熙三十九年(1700年)

  • 直隷各省の冗官(巡道・都司・同知・通判・理問・都事・照磨・検校・断事・衛経歴・州同・州判・県丞・府照磨・知事・司獄・巡検・駅丞・倉庫大使等)合計三百三十五員を削減した。

康熙五十七年(1718年)

  • 起居注衙門を廃止。部院に蒙古官を増設し、蒙古旗分御史二員、六部郎中六員、員外郎八員、主事六員を増員した。

雍正元年(1723年)

  • 夏、日講起居注官を復活。康熙五十六年以降廃止されていた記注制度を旧に復した。
  • 秋、尚書・侍郎らに毎日一人ずつ輪番で密摺により奏事させる制度を定め、通政司の権限を削り、事実上の閑職とした。
  • 台湾淡水捕盗同知・諸羅県北半線地方の知県・典史を新設した。

雍正二年(1724年)

  • 内地各衛所を州県に併合し管轄させたが、辺境の衛や漕運の衛所は従来どおり存続させた。
  • 巡視湖河御史の差遣を停止。直隷守道を布政使に、巡道を按察使に改称した。

雍正三年(1725年)

  • 総理事務大臣を撤廃。安徽提督学政を新設した。

雍正四年(1726年)

  • 浙江観風整俗使を新設。文字の獄で処罰される者が浙江人に多かったため風俗の引き締めを図った制度で、後に福建・広東にも設置されたが、まもなく廃止された。

雍正五年(1727年)

  • 八旗の各佐領に副領を一員増設。落第挙人を各省の教職に登用し、未選の満蒙武進士や漢軍武進士の任用制度も整備した。

雍正七年(1729年)

  • 淮安稽査御史二員、中倉漢監督・南倉満監督各一員を増設。糧船に関わる不正費用を取り締まり、倉務の監督体制を強化した。

雍正八年(1730年)

  • 稽察欽奉上諭事件処を設置し、皇帝の指示事項の処理の遅滞を監督させた。

雍正十年(1732年)

  • 軍機処を正式に設置。西北の軍事のため設けられていた軍需房を改称し、乾清門内・南書房の隣に移した。軍機大臣は内閣・部院の熟練者が兼任し、軍機章京が実務を担った。以後、議政王大臣会議の弊害が改まり、内閣の役割は軽くなった。

雍正十二年(1734年)

  • 浙江総督を廃止し、浙江巡撫と浙閩総督を置いた。雲貴総督は兼管を解かれ、広西は両広総督の管轄に戻した。

乾隆元年(1736年)

  • 五等世職の漢文名称(精奇尼哈番=子、阿思哈尼哈番=男、阿達哈哈番=軽車都尉、拝他喇布勒哈番=騎都尉、拖沙喇哈番=雲騎尉)を定めた。

乾隆二年(1737年)

  • 巡漕御史四員を淮安・済寧・天津・通州に分駐。直隷副総河、山西巡察、帰化城御史などを廃止した。

乾隆三年(1738年)

  • 稽査内務府御史を復活。各部院に督催所を設け、事務の遅滞を監督させた。

乾隆四年(1739年)

  • 査旗御史を増員した。

乾隆七年(1742年)

  • 王大臣に楽部を統括させ、太常寺の楽員を整理した。

乾隆十三年(1748年)

  • 都察院僉都御史、通政司右通政、大理寺少卿、詹事府少詹事の漢缺、太僕寺少卿・国子監司業の満缺をそれぞれ廃止。通政司の参議・通政を再編。行人司衙門を廃止し礼部に統合した。
  • 協弁大学士が総督を兼ねる場合の銜の扱いを整理。内閣大学士を満漢各二員と定め、殿閣の名を三殿三閣に改めた。

乾隆十四年(1749年)

  • 左春坊満漢左諭徳の欠員をそれぞれ廃止。翰林院から道府クラスの人材選抜を命じた。御史馮元による軍機処を枢密院に改める提案は却下された。

乾隆十六年(1751年)

  • 広東肇高学政を廃止。知県三年行取の旧例を停止した。

乾隆十八年(1753年)

  • 欽天監満漢監副をそれぞれ一員廃止し、西洋監副一員を増設した。

乾隆二十五年(1760年)

  • 安徽布政使が江寧に駐在する不便を解消するため、安慶に駐在させ、江蘇に藩司一員を増設した。

乾隆二十六年(1761年)

  • 新進士の引見に際し、会試の年に人材が不足する弊を改めるため中書の登用制度を整えた。

乾隆二十九年(1764年)

  • 甘粛巡撫を廃止し、陝甘総督を蘭州に移駐させた。

乾隆四十一年(1776年)

  • 文淵閣を文華殿の後ろに建設し、領閣事・直閣事・校理・提挙閣事・検閲などの職を新設して典籍の管理体制を整えた。

乾隆四十三年(1778年)

  • 尚書・侍郎から選ばれた歩軍統領には協理を派遣しない制度に改めた(従来は法律知識を補うため刑名部臣が協理していた)。

乾隆四十四年(1779年)

  • 辟展弁事大臣を領隊大臣に改称し、吐魯番に移駐させた。

乾隆四十八年(1783年)

  • 総督が兵部尚書・右都御史銜を、巡撫が兵部侍郎・右副都御史銜を兼ねる旧例のうち、漕運・河道総督は地方の責がないため兵部侍郎銜のみを与えることとした。
  • 各省の大挑挙人を知県佐貳として登用する制度を定めた。

乾隆五十八年(1793年)

  • 大学士の尚書兼銜、翰林院掌院の侍郎兼銜、順天府尹の提督学政兼銜を廃止。杭州織造を鹽政に、鹽道を運使に改めた(浙江巡撫による鹽務の兼管に弊があったため)。

乾隆五十六年(1791年)

  • 満洲大学士・尚書が議政大臣銜を兼ねる制度を廃止した(雍正期の軍機処設置後も名目だけ残っていた)。

嘉慶四年(1799年)

  • 諸王による部務の総理を廃止した。

嘉慶八年(1803年)

  • 満洲起居注を二員増設した。