清史紀事本末後金(遼藩)の建国(遼藩建国)
努爾哈赤が万暦四十四年(1616年)に帝位に即き後金を建国してから、七大恨を掲げた明への攻勢、サルフの戦いでの明軍撃破、遼陽・瀋陽への遷都を経て、天啓六年(1626年)に寧遠で初めて大敗し努爾哈赤が没するまでの経過。11年間。
年表(11件)
- 明神宗
- 万暦四十四年(1616年)努爾哈赤が帝位に即き後金を建国、元号を天命とする
- 万暦四十五年(1617年)東海沿辺の未服属諸部を平定
- 万暦四十六年(1618年)七大恨を掲げ挙兵し撫順・清河を攻略
- 万暦四十七年(1619年)サルフの戦いで明の四方向軍を撃破し葉赫を滅ぼす
- 光宗
- 泰昌元年(1620年)懿路・蒲河二路を攻略し撒爾湖に遷都
- 熹宗
- 天啓元年(1621年)瀋陽・遼陽を攻略し遼陽(東京)に遷都
- 天啓二年(1622年)西平堡・広寧を攻略、東京城を築き遷都
- 天啓三年(1623年)喀爾喀の一部が帰順、扎魯特部を征討
- 天啓四年(1624年)毛文龍の攻撃を撃退、皮島攻めは戦果得られず撤退
- 天啓五年(1625年)瀋陽(盛京)へ遷都、東海方面へ遠征
- 天啓六年(1626年)寧遠城攻めで初の大敗、八月に努爾哈赤没す
明神宗万暦四十四年(1616年)
- 努爾哈赤が帝位に即き、国号を「満洲」、元号を天命と定めた(後金建国)。臣下から尊号「覆育列国英明皇帝」を奉られた。
- 大臣扈爾漢らに東海の薩哈連部を攻めさせ、黒竜江流域まで進出。多数の部族を服属させた。
万暦四十五年(1617年)
- 東海沿辺の未服属諸部を平定。島に拠って抵抗する者も小舟で攻め服属させた。
万暦四十六年(1618年)
- 努爾哈赤は明に対する「七大恨」(祖父殺害、盟約違反、葉赫支援、婚姻妨害、開墾民の駆逐、葉赫への偏信、哈達支援など)を掲げて出兵。撫順を攻略し、遊撃李永芳が降伏。追撃してきた明の援軍(総兵張承蔭ら)を大破し全滅させた。
- 撫安堡・清河城なども攻略し、守将鄒儲賢・張斾以下一万の兵が全滅した。
万暦四十七年(1619年)
- 葉赫方面を攻略しつつ、明は経略楊鎬の指揮で四方向から満洲を攻撃(サルフの戦い)。満洲軍は各方面を各個撃破し、杜松・馬林・劉綎らの明軍を壊滅させ、朝鮮の援軍も降伏させた。
- 続けて開原・鉄嶺を攻略。八月には葉赫を攻めて滅ぼし、扈倫四部(哈達・輝発・烏喇・葉赫)をすべて平定した。
光宗泰昌元年(1620年)
- 懿路・蒲河二路を攻略。都を撒爾湖に遷し、軍民の居所を整備した。
熹宗天啓元年(1621年)
- 瀋陽を攻略。守将賀世賢・尤世功らを撃破し、続いて遼陽を攻略。経略袁応泰は自刃した。
- 遼陽以東の多くの城が降伏し、満洲は遼陽(東京、のち盛京)に遷都した。
- 毛文龍が鎮江堡・湯站・険山などを奪って抵抗するも、満洲は反撃し住民を内地へ強制移住させた。
天啓二年(1622年)
- 遼河を渡り西平堡を攻略。広寧も陥落し、経略熊延弼・広寧巡撫王化貞は難民を連れて山海関に退いた。廷臣は両名を弾劾し死罪とした。
- 蒙古兀魯特部が満洲に帰順。遼陽城東の太子河畔に新城(東京、のち盛京と改称)を築いて赫図阿喇から遷都。
天啓三年(1623年)
- 喀爾喀部の一部(拉巴西ら)が帰順。台吉阿巴泰らを遣わし扎魯特部を征討し、貝勒昂安父子を討った。
天啓四年(1624年)
- 毛文龍が満洲の渾発地を攻めるも守将蘇爾東に撃退される。満洲軍は皮島を攻めるも大きな戦果は得られず撤退。
天啓五年(1625年)
- 貝勒莽古爾泰、旅順口城を攻略。
- 瀋陽が形勝の地であるとして遷都を決定し実行、盛京と号した。東海瓦喀部への遠征も実施。
- 毛文龍の耀州・張屯寨への攻撃をたびたび退けた。東海虎爾哈への遠征も実施し、科爾沁部への察哈爾の包囲を解いた。
天啓六年(1626年)
- 寧遠城を大軍で攻めるも、袁崇煥・満桂の防衛と西洋式大砲により撃退される(初の大きな敗北)。覚華島の糧秣を焼いたものの、努爾哈赤自身は「なぜこの一城が落とせぬのか」と長く不快であったという。
- 喀爾喀部を親征し、巴林部を撃破。
- 八月、努爾哈赤が瀋陽近郊の靉雞堡で没した(享年68)。承徳県石觜頭山に葬られ福陵と号す。崇徳元年に武皇帝、康熙元年に高皇帝と追諡、廟号太祖。