清史演義第一〇〇回 総統に挙げ孫文就職す/帝位を遜り清祚終を告ぐ (舉總統孫文就職 遜帝位清祚告終)
停戦と議和の始まり
黄興は大元帥として湖北救援の兵を出そうとしていたが、清廷が袁世凱を議和全権大臣に任じたと聞き、停戦が近いと見て動きを緩めた。袁は尚書の唐紹儀を代表として南下させ、唐は漢口で英国領事の仲介により黎元洪と交渉し、双方はひとまず停戦した。その後唐紹儀は上海に移り、革命軍側の代表・伍廷芳と会談。伍は清帝の退位、民主政体への移行、清帝への年金支給、旗民への配慮という四条件を提示したが、唐は即答を避け、電報で内閣の指示を仰ぐこととした。
ドイツ公使の調停
「清帝退位」を清朝側がすぐに呑めるはずもなく、袁も強く拒めば戦禍が長引くため板挟みとなった。そこへ上海駐在の各国領事団を率いるドイツ領事が仲介に入り、英米仏日露の領事とも協議のうえ、戦争の早期終結を求める意見書を伍・唐両代表に提示した。両者はこれを受けてさらに協議を続けた。
各省の情勢と孫文の帰国
山東都督の孫寶琦が独立を取り消し、山西の太原も清軍に奪回されるなど、清側にやや勢いが戻る動きもあった。そのころ革命党の指導者・孫文が海外から帰国し、上海の民軍代表たちに熱烈に迎えられた。まもなく代表会議で大総統の選挙が行われ、孫文が最多票で当選、副総統には黎元洪が選ばれた。辛亥年十一月十三日(西暦一九一二年一月一日)、上海で中華民国臨時政府の樹立が宣言され、この日を中華民国元年元月元日とすることが定められた。
南京での就任式
孫文は南京へ赴き、沿道の熱烈な歓迎を受けて到着。軍艦・砲台が祝砲を放つ中、臨時大総統府で就任式が行われ、黄興や徐紹楨らが出迎えた。孫文は、専制政府を打倒し中華民国を強固にし、民生の幸福を図ることを国民に誓う趣旨の宣誓を行い、代表団から大総統の印を受け取った。式後、中央政府と参議院・各省議会からなる統治機構を定め、暦を太陽暦に改めること、十月十三日を新暦の正月一日として民国紀元とすることを決議した。政府は米国式にならい総理を置かず、黄興(陸軍)、黄鍾瑛(海軍)、伍廷芳(司法)、陳錦濤(財政)、王寵惠(外交)、程徳全(内務)、蔡元培(教育)、張謇(実業)、湯壽潜(交通)ら各総長・次長を任命した。
北伐の機運と清廷の動揺
南京政府樹立後、北伐の機運が高まり、女学生までもが北伐隊の組織を志すほどの熱気となった。上海の商人・芸妓らも資金を募って支援に動き、外国商人たちは商務への悪影響を恐れて清廷に早期の政体改革を促す電報を送った。摂政王載澧は袁世凱にすでに実権が移っていることを理由に監国の任を退き、政務は袁総理に一任され、幼帝の後見は世続・徐世昌が担うこととなった。袁は隆裕太后に御前会議の開催を奏請し、民軍の要求を皇族に諮ったが、皇族の多くは反対。唐紹儀は臨時国会の早期開催を主張したが皇族はなお応じず、唐は議和代表を辞し、以後は袁が直接交渉を担った。
各省独立と良弼暗殺
四川では総督趙爾豐、新疆では将軍志鋭、甘粛では総督長庚が殺害され、蒙古・西藏も独立の動きを見せた。袁は動揺しつつも太后に議和を進言し、いったんは辞意まで示したが、太后の慰留と侯爵授封(袁は固辞)を経て職にとどまり、伍廷芳との交渉を再開した。国会開催地をめぐる応酬が長引くうち、南方政府側は国会論議を棚上げし、清帝退位を絶対条件とするに至った。清廷にはもはや兵も軍資金も乏しく、再度の御前会議でも軍諮使の良弼だけが徹底抗戦を唱えたが、まもなく良弼は帰宅途中に爆弾で暗殺され(実行犯とされる民党の彭家珍もその場で落命)、これを機に皇族たちは動揺し、退位に反対する声は消えた。鄂の統領段祺瑞ら北方将弁四十二名も連名で退位を求める電報を送り、隆裕太后は袁に全権を委ね、清室優待条件について伍廷芳と協議させた。汪兆銘らの参加もあって条件は寛大な方向でまとまった。
退位の詔書
隆裕太后は、皇族がすでに我が身の安全を求めて逃げ去ったことを嘆きつつ袁に詔書の起草を託し、涙ながらに御璽を押した。宣統三年十二月二十五日(民国元年二月十二日)、三通の詔が発せられた。第一は、天命と民心の趨勢に鑑み統治権を国民に委ね、袁世凱に臨時共和政府の組織を委任し、漢満蒙回蔵五族を統合した中華民国を成立させる旨。第二は、民軍が提示した皇室優待条件(尊号の存続、清帝への年金支給、宮中居住の継続と後の頤和園移居、宗廟陵寝の保護、私有財産の保護、禁衛軍の存続などの条件、および清皇族・満蒙回蔵諸族への待遇条件)を裁可し公布する旨。第三は、京内外の官民に対し、大局を理解し職務に励むよう諭す旨であった。
清朝の終焉
清帝の退位により南北は統一され、臨時大総統孫文は袁世凱の功績を認めて大総統の地位を譲り、袁が民国第二代臨時大総統に就任した。副総統には南京会議で選ばれた黎元洪がそのまま留任した。以後「帝徳皇恩」という言葉は公文書から消えた。隆裕太后は共和宣布後、宮中に閉じこもり鬱々として過ごし、翌年冬に病を得て崩御、孝定景皇后と諡された。清朝は天命建号(後金建国)から数えて二百九十六年、順治帝の入関から数えて二百六十八年でその歴史を閉じた。
評語
作者は末尾に、清朝の由来と滅亡が摂政に始まり摂政に終わったこと、順治・宣統がともに幼帝であったこと、孝荘太后と隆裕太后の立場の相似などを詠んだ詩を添え、私心を捨てて国に尽くすべきことを後世に説く。さらに、中華民国の成立は孫文の長年の苦心が実を結んだものであるが、清室を実際に打倒したのは袁世凱の力によるところが大きいとし、袁の才智は革命党の人々や慶王奕劻・摂政王載澧をはじめとする清朝皇族の誰よりも優れていたと評する。また、隆裕太后が内外の圧力の中で和議と退位を決断したことは、頑迷に固執して人民を苦しめる愚に比べればなお評価できるとし、本書の叙述は誇張や偏りなく史実に即したものであり、一代の興亡を記して後世の鑑とするに足る、正史に連なる価値を持つと結んでいる。