清史演義第九十八回 革命軍雲のごとく興り義挙に応ず/摂政王廟に誓い信条を布く (革命軍雲興應義舉 攝政王廟誓布信條)
武昌攻防
- 清廷は武昌蜂起を受け陸軍大臣蔭昌を派遣、海軍にも薩鎮冰を出動させる。黎元洪は軍を編成し辮髪を切って士気を高め、五色旗を掲げて出兵する。
- 劉家廟をめぐる攻防では鄂軍が優勢に戦い、鉄路工人が線路を破壊したことで河南軍の列車が転覆するなど、鄂軍は連戦連勝を収める。清の水師も戦意に乏しく撤退した。
各省の独立
- 湖南では焦達峰が都督に推されるが実は洪江会出身で人望に乏しかった。陝西では張鳳翽らが挙兵し巡撫を負傷させ独立、江西では九江の馬毓寶が挙兵して省都にも波及、山西では新軍が巡撫陸鍾琦とその子亮臣を殺害して恊統閻錫山を都督に推した。上海・江蘇・浙江・雲南・貴州でも次々に独立が宣言される。特に江蘇は無血で独立、浙江では女性志士尹鋭志らが撫署に爆弾を投げ込み蜂起を成功させたことが特色として記される。
袁世凱の登板
- 各省の独立に慌てた攝政王は慶王の推挙で袁世凱を湖広総督に、次いで内閣総理大臣に任じる。袁ははじめ足病を理由に出仕を渋るが、広州将軍鳳山が革命党に爆殺されるなど情勢が悪化する中、ついに出馬を決意する。
- 蔭昌は偽装降伏の計で鄂軍を欺き一時勝利するが、袁が信陽で指揮を引き継ぐと、馮国璋の軍が漢口の民家を焼き払い略奪暴行を働くなど清軍の横暴が目立つ。これに対し鄂軍の敢死隊が奮戦し清軍数千を討ち取る大戦果を挙げた。
憲法信条十九条
- 袁世凱は表向き討伐を進めつつ、内実は国会開設・憲法改正・皇族内閣廃止を求める上奏を行い、講和への布石を敷く。
- 山西では陸鍾琦父子が殺害されるなど各地でなお混乱が続き、攝政王はついに罪己詔を発して党禁を解き、資政院が起草した「憲法信条十九条」を宣統三年十月六日、太廟にて宣誓・公布する。内容は皇帝権の憲法による制限、国会の権限強化など、清室が大幅に譲歩したものであったが、もはや民心を得ることはできず、両広・安徽・福建なども独立の動きを見せる。
評語
- 著者は、武昌の一挙に各地が呼応した以上、清朝の命運はすでに尽きていたと断じる。蔭昌・薩鎮冰らが全軍を挙げても一地方の黎軍を制せなかったのは、彼らの無能というより「離心離徳」(周書の言葉を引く)の清朝そのものの衰亡の表れであるとする。攝政王載澧については、二年余の監国に大悪はなかったものの、老臣と未熟な若輩に政務を委ねて事態を急変させた責は免れないとし、太廟での宣誓もすでに手遅れであったと結ぶ。