清史演義第八十六回 党見を争い新旧暗闘す/新政を行い母子嫌を生ず (爭黨見新舊暗哄 行新政母子生嫌)
膠州湾以後の列強による港湾租借
ドイツは膠州湾占拠を既成事実化し、九十九年租借・膠済鉄路建設・沿線鉱山採掘権を清に認めさせた。ロシアはすでに膠州湾租借の密約を得ていたため抗議し、結局李鴻章の交渉でロシアには旅順・大連湾(租期二十五年)が与えられた。続いてイギリスも「利益均霑」を盾に威海衛の租借と九龍司の租界拡張を要求。李鴻章は抵抗したが英使に一喝され、結局威海衛租借と九龍拡張を認めた。翌年にはフランスも広州湾を租借。イタリアも浙江三門湾を求めたが、これは総署が拒絶し実現しなかった。清は自ら秦皇島・呉淞口・三都澳を開港して各国の要求をかわしたが、国の腐敗があらわになり、排外の気風が次第に媚外へと変わっていった。
光緒帝と太后の確執
光緒帝は親政数年、相次ぐ敗戦に変法の必要を痛感するが、守旧派官僚は変法を恐れ、宦官李蓮英を通じて太后に働きかけていた。太后も日清開戦の責を光緒帝に帰し、母子の間に隙が生じつつあったが、恭親王弈訢や光緒帝の生母である醇王福晋の調停で表面上は平穏を保っていた。だが光緒二十四年、恭親王が病没し、続いて醇王福晋も亡くなり、光緒帝は内外に頼る者を失って孤立していく。
軍機大臣たちと帝党・后党
軍機大臣には礼親王世鐸、剛毅、廖寿豊、翁同龢がいた。剛毅は極端に頑固で学識に乏しく、笑話めいた逸話が伝わる。翁同龢は光緒帝の師傅として維新に理解があり、江蘇出身の南派(維新派)を代表、対して李鴻藻ら北派(守旧派)と対立した。守旧派は太后(后党)と、維新派は光緒帝(帝党)と結びつき、朝廷内は派閥抗争の様相を呈した。
李蓮英とその妹をめぐる確執
李蓮英は妹を宮中に送り込み太后の寵愛を得させ、光緒帝の後宮に入れて影響力拡大を図ったが、光緒帝はこれに冷淡で、李蓮英兄妹を疎んじた。これを恨んだ李蓮英は太后に光緒帝の悪口を吹き込み、太后と光緒帝の関係はさらに悪化。太后への謁見作法も厳格化され、光緒帝は鬱屈を深めていった。
康有為の登用と変法上諭
翁同龢は工部主事の康有為を光緒帝に推挙。康有為は光緒帝に見出され、変法の建議を重ねて容れられ、光緒二十四年四月、時文廃止・学堂設置・冗員削減・武科改革などを含む変法の上諭が発せられた。楊鋭・劉光第・林旭・譚嗣同らも登用され、四品卿銜を得て軍機章京として働いた。
変法をめぐる守旧派との衝突
太后は変法を容認しつつ「祖制に背かず満洲の権勢を損なわぬ限り」と条件をつけ、翁同龢を「頼りにならない」として排除するよう示唆していた。礼部尚書懐塔布・許応騤ら守旧派は新政の実務を滞らせ、御史宋伯魯・楊深秀が許応騤を弾劾するなど摩擦が続いた。文悌が宋伯魯らを弾劾すると光緒帝は文悌を罷免、一方、太后は光緒帝に翁同龢の罷免を迫り、光緒帝はやむなく翁を開缺させた。同時に太后は栄祿を直隷総督に、裕祿を軍機大臣に据え、実権を握った。その後光緒帝は懐塔布・許応騤ら守旧派六人を免職とした。
天津閲兵計画と圍園の密謀
太后寵愛の宦官李蓮英を排除しようとする維新派の動きに危機を感じた李蓮英は妹とともに太后に泣訴し、栄祿を通じて「光緒帝が太后を奉じて天津へ閲兵に赴く」計画を仕組んだ。光緒帝はこれを危険と見て康有為らと密議し、栄祿を天津で殺害した上で軍を率いて頤和園を包囲し太后を幽閉するという計画を立てた。実行にあたり、光緒帝は兵権を握る手駒として直隷按察使袁世凱を召見し、忠誠を確かめた上で侍郎に抜擢し、練兵の全権を委ねた。太后も袁世凱を召見して釘を刺したが、光緒帝は袁世凱に密かに栄祿殺害と太后包囲の密命を下し、証拠として小箭を与えて天津へ送った。ところが当日夕方、栄祿が急遽北京に入京するという想定外の事態が起こる。
評語
清の外患が相次ぐ中、変法自体は必要であったが、頑固派の因循も、維新派の性急さも国を誤らせた。栄祿を殺し太后を幽閉するという計画は名分が立たず、慈禧は武則天ではなく、維新派の力も足りなかった。皇帝を賭けに出すような無謀な策であり、守旧派も維新派もともに批判を免れない。