清史演義第七十九回 歓に因り病を成し彌留を報ず/弟を以て兄を継ぎ統緒を延ぶ (因歡成病忽報彌留 以弟繼兄旁延統緒)
同治帝と慈禧太后の対立
- 親政後の同治帝は剛直な性格で慈禧太后と衝突しがちであった。慈禧太后は内監を使って国事を密偵させ帝を叱責するが、帝はかえって隠し事を増やし、母子関係は悪化する。慈安太后は温和に接するため帝はむしろ懐き、慈禧太后の不満はますます募った。
- 慈禧太后は皇后に諫言役を頼むが、皇后は帝と気が合い、太后の言葉をそのまま帝に伝えてしまい、これが太后の耳に入って皇后への恨みを深める結果となった。
円明園再建計画とその頓挫
- 内侍の文喜・桂寶らが同治帝に円明園再建を勧め、帝は許可する。恭親王弈訢は財政難を理由に諫めるが、帝は「天下を以て養う」との孟子の言葉を引いて聞き入れず、恭親王を怒らせて退出させる。
- 恭親王の子・載澂が不用意な軽口を叩いたことも重なり、激怒した同治帝は恭親王父子の処罰(当初は賜死、文祥の必死の諫めで革爵に軽減)を決めるが、御史の建言もあって円明園計画自体を撤回、三海の修繕に切り替える詔を出す。
- しかし恭親王の爵位が元通りだったことに気づいた帝は再度激怒し、恭親王を郡王に格下げする詔を出すが、慈安太后・慈禧太后の介入によりすぐに撤回され、爵位は元に戻された。
同治帝の微行と病
- 失意の同治帝は文喜・桂寶に誘われて南城の花街へ微行するようになり、放蕩にふける。内務府の桂慶が諫言し諫めるが聞き入れられず、桂慶は辞職。恭親王らも直諫を避け、慈禧太后に内々に報告するにとどまった。
- この年、台湾で日本人漂流民が生蕃に殺害された事件(台湾出兵)が起こり、日本は西郷従道を派遣して出兵。清朝は琉球の帰属を曖昧にしたまま賠償金で決着させ、結果的に琉球への影響力を失う。
- 同治帝は台湾・琉球の問題にも無頓着なまま遊興を続け、やがて性病由来とみられる病を発症。天花(天然痘)と称されたが実態は隠され、御医の見立ても的外れなまま病状は悪化し、同治十三年十二月初五日、養心殿にて崩御した。享年十九。
光緒帝の擁立
- 崩御に際し、慈禧太后は李鴻章の淮軍を急遽入京させ、慈安太后とともに王大臣らを召集。皇后の懐妊を理由に発表を遅らせる案も出るが、慈禧太后は「国に一日も君主なきはあり得ない」として却下し、後継者選定を急がせる。
- 恭親王は宣宗の孫・溥倫を推すが、慈禧太后は血統が遠いとして退け、自らの妹婿である醇親王弈譞の子・載湉(当時四歳)の擁立を主張。投票の結果、大多数が慈禧太后の意向どおり載湉に票を投じ、擁立が決定した。
- 慈禧太后が載湉を選んだ背景には、同治帝の後継として溥字輩を立てると自身が権力を失うこと、載湉が幼く自らが摂政として実権を握り続けられることへの計算があった。同治帝には穆宗の諡号が贈られ、載湉は光緒帝(徳宗)として即位、両宮太后は再び訓政を行うこととなった。
嘉順皇后の自尽
- 同治帝の皇后阿魯特氏(嘉順皇后)は、立嗣に際して意見を求められることもなく、慈禧太后から「狐媚子」と罵られるなど冷遇された。さらに「大行皇帝には嗣子なし、将来光緒帝に子ができればその子を同治帝の後継とする」との懿旨が下り、皇后の望みは絶たれる。
- 懐妊していた皇后は絶望し、父・崇綺に最後の別れを告げた翌朝、宮中で崩じた。内閣侍読学士の広安が、将来の混乱を避けるため皇統継承を鉄券に定めるよう上奏するが、慈禧太后の逆鱗に触れて叱責された。
- 光緒四年、同治帝と孝哲毅皇后(嘉順皇后)は惠陵に合葬される。その際、ある下級官吏が屍諫の覚悟で上奏し殉義するという事件が起きた。
評語
- 同治帝の崩御は放蕩による病が原因と伝えられ、天花は表向きの言い訳に過ぎない。慈禧太后は実母でありながら帝と些細なことで不和になり、遊蕩を止めず、発病後も十分な看護をしなかった点で、母子の間に禍根を残したと言わざるを得ない。
- 光緒帝の擁立は、種々の理由をつけつつも実質的には慈禧太后一人の私意によるものであり、これによって嘉順皇后は自尽に追い込まれた。その悲劇を思うと哀れであるが、同時にこの一件によって慈禧太后の手腕の恐ろしさが一層明らかになったといえる。