清史演義第七十八回 大婚礼成り坤闈位を正す/撤簾議決し乾徳陽に当る (大婚禮成坤闈正位 撤簾議決乾德當陽)
馬新貽暗殺事件の審理
- 天津教案が片付いた頃、両江総督馬新貽が刺客張汶祥に暗殺され、李鴻章が直隷総督、曾国藩が両江総督に転任となる。曾国藩は六十歳の祝賀を受けた後、江寧に赴任し、朝廷は欽差鄭敦謹を派遣して合同で審理させた。
- 張汶祥は厳しい尋問にも黒幕の存在を否定し、「馬新貽を刺したのは自分一人、好漢は自分のしたことに自分で責任を持つ」と言い張るのみで、結局主使者不明のまま凌遅処死の判決が下った。
馬新貽暗殺の背景(伝聞)
- 語り伝えによれば、馬新貽は出世前、義兄弟の妻の美貌に横恋慕し、総督の地位を利用してその夫を辺地へ赴任させ、家族を督署に住まわせるという口実で妻を誘惑し関係を持った。
- 妻はやがて夫より権勢のある馬新貽になびき、二人の関係は続いたが、夫が休暇を願い出るたびに馬新貽はこれを妨げ、ついには「大盗と通じている」との虚偽の密告で夫を処刑させてしまう。
- これを知った夫の友人が義憤に駆られ、馬新貽を刺殺。妻も罪の意識から自ら命を絶った。真相は定かでないとしつつも、こうした因縁が語り伝えられている。
同治帝の大婚
- 同治帝は十七歳となり、大婚の準備が進められる。慈禧太后・慈安太后が候補の令嬢四人(崇綺の娘阿魯特氏、鳳秀の娘富察氏、崇齡の娘赫舍裡氏、賽尚阿の娘阿魯特氏)を検討し、慈安太后の「皇后は徳と年長を重んじるべき」との意見により、阿魯特氏(崇綺の娘)が皇后に選ばれた。
- 詔勅により立后が発表されるが、これと前後して曾国藩が両江総督在任中に死去。朝廷は太傅を追贈し、諡「文正」を賜り、京師・湖南原籍・江寧に専祠を建立、子孫に爵位・官職を授けるなど手厚く弔った。御製の祭文・碑文が下賜され、後任は李鴻章となった。
- 九月、同治帝の大婚儀礼が執り行われ、阿魯特氏が皇后に、富察氏が慧妃に冊封される。合巹の礼、両太后への謁見などの儀式が続き、後に赫舍裡氏(瑜嬪)・阿魯特氏(珣嬪)も後宮に加わった。
両宮の撤簾親政
- 大婚から数日後、朝廷は同治帝の親政開始を発表する詔を出す。これは慈安太后の主導によるもので、慈禧太后も内心では権力保持を図りつつ表向きは同調した。
- ちょうど親政発表と時を同じくして、雲南で回民反乱の頭目杜文秀が討伐される捷報が届く。総督劉岳昭・巡撫岑毓英らが大理城に籠る杜文秀を包囲し、文秀は服毒自殺、遺体は梟首された。岑毓英はさらに投降した回民数万を偽って城外に誘い出し、密かに掘った坑に落として生き埋めにするという酷い謀略を用いた。
- 杜文秀の娘・秋娘は母とともに脱出したが流浪の末に母は病死、秋娘も志を果たせず自死した。伝えられる遺書には、苗族の頭目が秋娘を妾に望んで拒絶されたことが逆恨みとなり、父・杜文秀を裏切って清軍に投降させた経緯と、父を滅ぼした苗酋への恨みが綴られている。
親政の開始
- 同治十二年正月二十六日、両宮太后は撤簾し同治帝が親政を開始。両太后には新たな徽号(東太后「康慶」、西太后「康頤」)が加えられた。
- 折しも陝甘総督左宗棠が靖辺県の反乱勢力董福祥を降し、白彦虎・馬化隆ら陝甘の回民反乱の首魁を追討して関内平定を奏報し、恩賞が下る。左宗棠はさらに西域への出兵を命じられ、朝廷は太平の気分に包まれた。
評語
- 本回は立后と親政を主軸に描いた。順治帝・同治帝の立后を詳しく記したのは、順治の皇后が理由なく廃されたこと、同治の皇后が最期を全うできなかったことによる悲劇の伏線であり、家を治めてこそ国を治められるという道理を示す。
- 撤簾親政については、慈安太后が私心なく提唱したことに異論はないが、慈禧太后はなお試行期であり、この十年の垂簾統治で東南・西北がおおむね平定されたのは両宮の功績が大きい。しかし曾国藩の死により清廷は偉才を一人失い、左宗棠・岑毓英らが辺境で戦功を挙げる一方で、宮中には放縦の兆しも見え始めており、本回はまさに清朝の過渡期として読むべきである。