清史演義第七十七回 権閹を戮し丁撫法を守る/教案を弁じ曾侯譏を遭う (戮權閹丁撫守法  辦教案曾侯遭譏)

安得海の専横

  • 慈禧太后は宮中で退屈を持て余し、宦官安得海の計らいで戯園を造らせ、日夜演劇を楽しむようになる。安得海は両宮垂簾の際の功もあって権勢をふるい、同治帝すら一目置く存在となり、太后から咸豐帝の遺した龍衣まで下賜されるほど寵愛された。
  • 御史賈鐸が太監の専横を諫める上奏を行うが、慈禧太后は総管太監に厳しく監督させるとの名目だけの詔を出し、実際には演劇を続けさせ、むしろ安得海を総管に据えて権力を増大させた。

龍衣調製を口実にした出京

  • 粤捻の乱が平定され天下が落ち着くと、安得海は同治帝の大婚に向けた龍衣調製を口実に、内監の出京を禁じる祖制を破って江南へ赴くことを慈禧太后に願い出る。太后は祖制を気にしつつも安得海の説得に乗り、秘密裏に出京を許可した。
  • 同治八年六月、安得海は太平船二隻を仕立て、竜鳳の旗を掲げ、孌童や妙女を伴う派手な行列で出発。直隷を経て山東へ南下し、道中の地方官から金品を巻き上げながら得意満面であった。

丁宝楨の摘発と処刑

  • 山東巡撫丁宝楨は、剿捻で功を挙げた廉直な人物で、太監が勝手に出京したことを不審に思い、密奏をしたためて恭親王を通じて宮中に届けさせる。
  • 恭親王は安得海の専横を快く思っておらず、慈安太后に密奏を上げる。慈安太后は西太后の反発を恐れつつも、恭親王の説得を受けて「捕らえ次第、その場で処刑せよ」との厳しい諭旨を発した。
  • 山東巡撫丁宝楨は総兵王正起に命じて泰安県で安得海の船を捕らえさせる。安得海は「皇帝すら自分を捕らえられない」と虚勢を張るが、王正起自ら取り押さえて縛り上げた。丁宝楨は大堂で密諭を読み上げ、安得海が命乞いをするも取り合わず、即座に斬首を執行。随行の陳玉麟・李平安ら太監も絞殺され、事件は落着した。

慈禧太后の怒りと李蓮英の台頭

  • 事件は慈禧太后に伏せられていたが、後に太監李蓮英が知らせる。太后は激怒し、慈安太后や恭親王を恨むが、李蓮英が巧みに執り成し、さらに恭親王の娘である栄寿公主(慈禧の養女格)にも取り成しを頼ませて事を収める。
  • この一件で機転を利かせた李蓮英は慈禧太后の信任を得て、以後総管太監に抜擢され、安得海に代わって宮中で権勢を握ることになる。

天津教案の勃発

  • 一年余り後、天津で外国人宣教師をめぐる教案(天津教案)が起こる。清朝は総理各国衙門を設けて通商・外交にあたり、曾国藩・李鴻章らの主導で同文館設立、機器局・製造局の設置など洋務が進められていたが、実態は形ばかりのものだった。
  • 天津では人さらいの容疑者武蘭珍が捕らえられ、教会信徒の王三の名を出したことから、教会が幼児を誘拐し目玉や心臓を薬にしているとの流言が広まり、住民の怒りが爆発。フランス領事豊大業が通商大臣崇厚に発砲する事件を起こしたことで群衆が激高し、豊大業を撲殺、教会を焼き討ちする騒動に発展した。

曾国藩の苦渋の処理

  • 直隷総督だった曾国藩が病をおして天津に赴き、崇厚とともに事態収拾にあたる。フランス公使羅淑亞は教会修復・領事埋葬・地方官処罰・下手人厳罰の四条件を要求し、地方官処罰を巡って交渉が難航する。
  • 結局、知府張光藻・知県劉傑の逮捕処罰が命じられ、天津の民衆は曾国藩・崇厚を非難する。曾国藩は迷信による流言であったことを認めつつも、既に対処済みである旨を上奏し、外国との衝突を避けるため穏健な解決を図った。
  • 最終的に暴動の首謀者ら十五人を処刑、四人を軍流、十七人を徒刑とし、張光藻・劉傑は黒龍江へ流罪となって教案は落着した。

曾国藩の再登板と結び

  • 教案が一段落した矢先、両江総督馬新貽が刺客張汶祥に暗殺される事件が起き、曾国藩が再び任地を動かされることになる。

評語

  • 安得海の処刑については丁宝楨の胆力に感服し、なお慈安太后の決断を評価する。慈安太后は普段温厚だが、この一件では恭親王の勧めを受けて速やかに厳罰を下しており、これは彼女の生涯における明断として今も称えられている。
  • 天津教案での曾国藩の対応は世評では軟弱と評されたが、粤捻平定直後で西陲もいまだ安定せず国内が疲弊していた当時の情勢を考えれば、軽々に外国と事を構えられない事情があった。本回前半に丁宝楨の剛、後半に曾国藩の柔を見るとともに、両宮垂簾の時代に朝旨が概ね人心にかなっていたのは慈安太后の力によるところが大きく、彼女を賢后と呼ばずして何と呼ぼうか。