清史演義江南を陥し洪氏制を定む/河北を攻め林酋威を挫かる(第六 十回 陷江南洪氏定制  攻河北林酋挫威)

江寧陥落

  • 江寧(南京)は太平軍に包囲された。総督陸建瀛は緑営兵で外城を、将軍祥厚と副都統霍隆武は駐防兵で内城を守った。
  • 城外の商民も義勇隊を組んで出撃したが、実戦経験に乏しく太平軍に敗れて敗走し、多数の死者を出した。
  • 太平軍は儀鳳門外に地道を掘り地雷を仕掛けて城壁を爆破。守備兵が駆けつけたが、別の一隊が三山門から越城して侵入し、外城は陥落した。陸建瀛は自害。
  • 続いて内城も攻められ、祥厚・霍隆武は二昼夜力戦したのち力尽きて戦死し、内城も破られた。
  • 太平軍は財を奪い、人を殺し、婦女を凌辱するなど暴虐の限りを尽くし、官民あわせて四万余人が死んだ(咸豐三年四月十日)。

洪秀全の建都と制度整備

  • 洪秀全は戦利品で将士を厚く労い、部下から「万歳」と称され、自らも「朕」と名乗った。
  • 東王楊秀清・北王韋昌輝・翼王石達開および軍師銭江を集めて会議。銭江は北伐重視の方策、官制整備、科挙開設、通商などを進言した。
  • 秀全が金陵建都を諮ると、楊秀清が「長江の要害と豊かさ」を理由に強く主張し、銭江もそれに従わざるを得なかった。
  • 銭江は鎮江・揚州の攻略を勧め、秀清の求めに応じて林鳳祥・羅大綱・李開芳・曾立昌らが出征を志願した。
  • 南京は「天京」と改称され、総督衙門は王宮に、名家の邸宅は諸王府に改められた。官制・朝儀・法律を制定し、王・丞相以下の位階、男女それぞれの官職、蓄妾・売春・纏足・阿片吸引の禁止などの「天条」を定めた。暦は一年三百六十六日で閏日を置くが閏月は置かず、七日ごとに礼拝を行った。(この制度、古今中西いずれにも属さぬ寄せ集めと評される。)
  • 竜鳳殿が完成し、秀全は略取した女性数十人を妃嬪とし、即位の礼を行って文武百官の朝賀を受けた。

清軍の来襲と北伐の捷報

  • 清の欽差大臣向栄が大軍を率いて城東孝陵衛に布陣、続いて欽差大臣琦善も直隷・陝西・黒竜江の兵を率いて河南から迫った。
  • 秀全は動揺したが、銭江は「琦善は恐れるに足りぬが、向栄と張国梁の連携は侮れず、重兵を配置すべき」と進言。
  • そこへ林鳳祥から、二月二十一日に鎮江、二十三日に揚州を陥落させたとの捷報が届く。林は北伐続行を願い出た。
  • 銭江は孤軍深入の危険を案じ増援を求め、秀清は北王の縁者である吉文元を派遣させた。銭江は反対したが押し切られた。
  • 実は吉文元は韋昌輝(北王)の妹婿であり、楊秀清は韋の勢力を削ぐため吉文元を遠ざけて羽翼をもぐ策略を含んでいた。銭江はこれを見抜いたが、洪楊の間柄に立ち入れず黙認するしかなかった(後の韋楊内訌の伏線)。

南方の守備配置と楊秀清の専横

  • 銭江は江南の防衛として、堅守しつつ長期戦に持ち込む策と、安徽・江西を撹乱して敵の後方・糧道を断つ策を提案。
  • 秀清は安徽を石達開に、江西を韋昌輝に委ねることを提案し、自分は天王と天京守備に留まると称したが、これは実質、有力な二王を都から遠ざける私意によるものだった。
  • 秀清は驕慢を極め、邸宅を拡張し秀全同様の生活を送り、城内の美女三十六人を「王娘」として侍らせ、天妹洪宣嬌とも私通の噂があった。外出の際は数千人を従え、豪奢な行列を仕立てた。
  • 天王洪秀全も酒色に耽り朝政をほとんど顧みず、軍政・賞罰は秀清が専断した。
  • 秀清は科挙を開かせ、男状元に程文相(辮髪廃止と漢族復興を説く文)、女状元に傅善祥(北伐と漢の威光回復を説く文)を選ばせた。傅善祥は東王府の女書記として重用され秀清の寵愛を受けたが、やがて増長して秀清を含む首脳陣を批判する文書を書いたため罰せられ、病を得て詫び状を出してようやく赦免された。後に善祥は行方をくらませたという。

林鳳祥・吉文元の北伐と挫折

  • 林鳳祥は滁州を出て臨淮関・鳳陽を攻略、吉文元も浦口から亳州を落として合流し、河南を目指した。
  • 河南巡撫陸応谷は帰徳で迎撃しようとしたが、太平軍は間道から開封に迫った。守将沈兆雲が籠城し、援軍として駆けつけた托明阿と挟撃して二昼夜の激戦の末、太平軍を撃退した(林・吉の一度目の挫折)。
  • 開封攻略を諦めた林鳳祥は黄河を渡り懐慶府を攻めたが、欽差大臣訥爾経額らの援軍が到着。李開芳は「城攻めに固執せず大名から天津を目指すべき」と諫めたが林は聞き入れず、十日以上対陣を続け兵を消耗した。
  • 清軍三路からの総攻撃で柵を焼かれ、太平軍は柵を捨てて脱出を図る乱戦の中、吉文元は流弾に当たって戦死。林鳳祥はかろうじて血路を開いて北へ逃れた(二度目の大きな挫折)。
  • 林鳳祥は勝保に追撃され、退路を失って山西に逃げ込む。山西巡撫の備えは薄く、垣曲・曲沃を経て平陽府を陥落させ洪洞に至り、江寧からの援軍(曾立昌・許宗揚ら)と合流。
  • さらに潞城・黎城間の小路を抜けて臨洺関に急行し、清軍を大清の軍と偽って奇襲、訥爾経額の軍を混乱させて深州まで進んだ。
  • 深州の官吏はすでに逃亡しており、無血で入城した。

深州の衝撃と清軍の反撃

  • 深州は北京から六百里の至近で、清廷は震撼。咸豊帝は恵親王綿愉を大将軍、僧格林沁を参賛大臣に任じ、京旗・察哈爾の精鋭を派遣した。
  • 山西を回復した勝保も直隷に転じ、訥爾経額に代わって指揮を執り、恵親王・僧格林沁らと共に太平軍を挟撃。
  • 僧格林沁は連戦連勝で林鳳祥軍を撃破し、林は深州を捨てて天津方面へ逃れたが、勝保にも追撃されて天津攻略を断念し、静海に退いて次第に追い詰められた(三度目の大挫折)。

江南の混乱と曽国藩の登場

  • 北方が鎮まる一方、南方は安徽(石達開が再び安慶を陥落)、江西(韋昌輝が南昌を包囲)で戦乱が続いた。
  • 楊秀清は豫王胡以晃らを増派。按察使江忠源が南昌救援に赴き一勝したが、吉安の土匪が太平軍と結んで蜂起し、江忠源は湖南に急を告げた。
  • この急報が湖南湘郷出身の曽国藩(字は伯涵、号は滌生)を歴史の表舞台に引き出すこととなる。
  • 曽国藩は道光十八年の進士で禮部右侍郎まで昇進し、咸豐元年には直言を求められて厳しい意見書を上奏し、祁雋藻らの取りなしで罪を免れた経歴を持つ。
  • 母の喪に服していたが、友人郭嵩燾の勧めで喪中のまま兵を興し、農民を義勇兵に、書生を営官に登用して戚継光の兵法にならった訓練を行い、団練数営(湘軍の起こり)を作り上げた。
  • 江忠源の求めに応じ、曽国藩は巡撫駱秉章に江忠源の才を訴え、湘勇・楚勇・営兵あわせて数千を郭嵩燾・夏廷樾・朱孫貽に率いさせて派遣した。江忠源の弟忠済や羅沢南らも子弟を率いて従軍し、これが湘軍が境を出て戦う最初となった。

評語

  • 洪秀全が江寧に都を定めたこと自体は得失を論ずるまでもないが、その後の淫逸放縦、軍国の実権を楊秀清に委ねきったことが破滅の因である。秀清もまた専権と驕奢において秀全に劣らず、むしろ甚だしかった。君臣ともにこの有様では成功は望めない。
  • 林鳳祥らの北伐は当初勝算があり、淮河を越え汴梁に迫る勢いは鋭かったが、清軍未集の隙に一気に北京を衝かず、懐慶で足踏みし山西を迂回したために兵力を消耗し、敗北は必然であった。
  • 洪楊が西洋の制度を表面だけ真似て同胞を殺戮した以上、たとえ北伐に成功したとしても長続きはしなかっただろう。本回は洪楊のために惜しみ、また洪楊の病根を指摘するものであり、林鳳祥・吉文元らはあくまで脇役に過ぎない。読者はその言外の意を汲み取るべきである。