清史演義第五十九回 駱中丞、長沙城を固守す/銭東平、江南を取る策を献ず (駱中丞固守長沙城 錢東平獻取江南策)
蓑衣渡の敗戦
- 昏倒から目覚めた洪秀全は馮雲山・洪大全を失った悲嘆を語る。馮雲山を討ったのは、告病帰郷していた江忠源だった。江忠源は同郷の劉長佑と義勇を募り桂林救援に向かう途中、蓑衣渡で馮雲山を誘い出し銃撃で討ち取っていた。
- 秀全は復讐を命じるが、江忠源は民船を連ねて水路を封じる計略で洪軍の船団を火攻めにし、大打撃を与えた。洪軍は船を捨てて上陸し東方へ敗走した。
湖南への侵攻と長沙攻防
- 賽尚阿は動かず、江忠源の求援もむなしく洪軍は道州・江華・永明・嘉禾・藍山・桂陽州・郴州へと進撃を広げた。
- 長沙の巡撫駱秉章は秀全の幼なじみで、対句を交わした逸話が語られる。秀全は駱秉章を警戒して郴州で足踏みするが、蕭朝貴に急かされて進軍。駱秉章が罷免され後任が張亮基と知ると、蕭朝貴は千の精鋭を率いて単独で長沙攻略に向かった。
- 蕭朝貴は安仁・攸縣・醴陵を破り長沙に迫る。駱秉章・提督鮑起豹は城隍廟の神像まで城楼に据えて民心を鎮めつつ籠城。清の援軍(和春・常祿・李瑞・德亮ら)が到着し攻防は膠着した。
- 徐廣縉が両湖総督として派遣され、江忠源が天心閣を奪還する激戦の末、蕭朝貴は南門攻撃中に頭部に銃弾を受けて戦死した。
秀清の進撃と武漢占領
- 蕭朝貴の死に秀全は嘆き、妹の宣嬌は泣いて夫の仇討ちを求める。楊秀清が仇討ちを約して北上、長沙を再び攻めるが地雷戦も向榮配下に阻まれ、秀全は包囲を解いて西へ転じた。
- 江忠源の追撃を退けつつ、秀全は寧鄉・益陽・湘陰を経て洞庭湖を渡り岳州を占領、呉三桂の遺した武庫を接収。さらに漢陽・漢口を陥落させ、知府董振鐸は巷戦の末戦死、知県劉宏庚は自害した。
- 冬、洪軍は舟を連ねて漢陽から武昌へ肉薄。巡撫常大淳が守るが、向榮が洪山に布陣し牽制する中、楊秀清の夜襲は向榮配下の張嘉祥(元大盗、後に向榮に降り張國梁と改名)の反撃で大敗し、多数の営塁と武器を失った。
- 大雨の中、武昌は地雷で破られ常大淳ら藩臬諸官は殉死。清廷は徐廣縉を逗留の咎で罷免、向榮を欽差大臣に、張亮基を湖廣総督代理に、駱秉章を湖北巡撫代理に任じた。
錢江の献策と南京への進撃
- 武昌で越年した秀全のもとに、浙江の書生錢江(字は東平、かつて林則徐の幕賓)が訪れる。石達開の取り成しで謁見が叶い、錢江は「武昌は四戦の地、久しく守れない。江南を取り、次いで河南、山東へと進むべし」と献策、長文の上言で金陵(南京)を都と定めて北伐する戦略を説いた。
- 秀全は大いに気に入り、錢江を軍師に任じ、咸豐三年正月元旦、武昌を捨てて東下を開始。壽春総兵恩長を討ち破り、九江・安慶を陥落させ(安徽巡撫蔣文慶は自尽)、太平・蕪湖を破って福山総兵陳勝元を討ち、正月二十九日には江寧城下に迫り、二十四営・水陸百万と号する大軍で包囲した。
評語
前半は駱秉章、後半は錢東平(錢江)を描く。駱秉章は罷免後も長沙を死守し、後の湘軍勃興の礎を築いた功労者であり、長沙が持ちこたえたことこそ長江防衛の要であったと評価する。一方の錢江は江南攻略という策自体は誤りではないが、武昌を放棄して東下したことは失策であり、南北の連携を断って根本を弱めたと批判し、「洪氏を助けたのも東平、洪氏を誤らせたのも東平」と結ぶ。