清史演義第五十七回 清文宗、統を嗣ぎ奸を除く/洪秀全、衆を糾い難を発す (清文宗嗣統除奸  洪秀全糾眾發難)

道光帝の崩御と咸豐帝の即位

  • 道光三十年正月、病篤くなった道光帝は宗人府・軍機大臣らを圓明園に召し、秘匣を開いて「皇四子弈詝」の名を宣示、皇四子を太子と定めて崩御した。
  • 皇四子(咸豐帝)は孝全皇后の子。道光帝は一時皇六子(弈訢)への寵愛から立太子を迷っていたが、侍讀學士杜受田の入れ知恵で心証を得た逸話が語られる。校猟に際し、杜受田の助言に従い皇四子だけが獲物を取らず、「春は鳥獣の孕育期、殺生を好まず、また弟と技を争いたくない」と答えたことで道光帝の信を得て立太子に至った。

咸豐帝の粛清と人事

  • 咸豐帝は道光帝を宣宗成皇帝と諡し、生母代わりに養育してくれた康慈皇貴太妃らを厚遇、弟たちを親王・郡王に封じ、杜受田を協辦大學士に抜擢した。
  • 林則徐・周天爵・達洪阿・姚瑩ら杜受田が推した人材を次々に起用する一方、権臣穆彰阿と耆英を厳しく弾劾する上諭を発した。穆彰阿は英国と結んで林則徐らを退けようとした奸計を、耆英は広州入城問題での卑屈な対応を咎められ、穆彰阿は永久不敍用の革職、耆英は五品頂戴への降格に処された。
  • 発端は英船二隻が道光帝弔問を名目に天津沖へ来航した際の対応で、咸豐帝は穆彰阿・耆英の宥和的な進言を退け、直隸総督に婉曲に断らせて英船を退去させたことにあった。

広西の匪賊と洪秀全の登場

  • 道光二十八年、両広は飢饉で盗賊が横行、広西東南部は強盗の巣窟と化した。巡撫鄭祖琛は老いて事なかれ主義に陥り、役人も腐敗して賄賂で盗賊と通じる有様。百姓は自ら団練を組んで自衛するしかなかった。
  • こうした中、桂平県金田村の洪秀全(広東花縣の人、嘉慶十七年生)が登場する。科挙に度々失敗した秀全は占いで生計を立てるうち、上帝教を創始した朱九濤に師事。九濤の死後も布教を続け、キリスト教の『馬太福音』等を取り入れて自らを「上帝の次子・耶穌の弟」とする独自の教義を作り上げた。
  • 馮雲山と広西の鵬化山で布教を広げ、三点会を結成。楊秀清・韋昌輝・石達開・秦日綱・蕭朝貴らが集まり、秀全は妹の宣嬌を蕭朝貴に嫁がせて結束を固めた。入会金五両を集め、男女を「兄弟姉妹」と称する平等主義的な組織を作った。
  • 信者を増やすため仮死の芝居を打ち、七日後に「復生」したと称して大々的に説法会を開催。「清朝の命運は尽きた、上帝を信じよ」と説き、多数の入会者と会費を得た。

金田蜂起

  • 秀全は馮雲山に軍備を進めさせるが発覚して投獄され、賄賂で減刑・帰郷。広西に戻る途中、平南県の豪族胡以晃と結び、金田村で楊秀清・韋昌輝・石達開・秦日綱に加え、新参の林鳳祥・羅大綱・洪大全と結束。牛を屠り血を啜って義兄弟の契りを結び、洪秀全を筆頭に楊秀清を次席として、蓄髪易服・興漢滅胡を掲げ大元帥洪の旗を金田村に立てた。

評語

高宗(乾隆帝)が和珅を重用して川楚陝の乱を招いたように、宣宗(道光帝)は穆彰阿を重用して十五年に及ぶ洪楊の乱を招いたと説く。一人の奸臣が用いられれば連なる奸党が朝廷内外に広がり、それが民怨を醸成して乱を誘発する構図を指摘し、洪秀全が西教を仮借し詐死で民を惑わした経緯も、権奸の跋扈が民を追い詰めた結果に過ぎないと結ぶ。