清史演義第四十四回 徳を布き威を揚げ連番詔を下す/渠を擒え馘を献じ載て功を報ず (佈德揚威連番下詔 擒渠獻馘逐載報功)

王三槐の供述と嘉慶帝の反省

和珅が処刑された頃、京師に檻送された王三槐は嘉慶帝の尋問に対し「官逼民反」(官の圧政が民を反乱に追いやった)と繰り返し供述し、四川で信頼できる清廉な官吏としてただ劉清(劉青天)、そして巴県の趙華・渠県の呉桂を挙げるのみだと答えた。嘉慶帝はこれに感じ入り、王三槐の処刑を保留した上で、官吏の腐敗が和珅への贈賄に起因していたこと、教徒に脅された民が進退窮まって命を落としている実情を認める詔を発した。

良吏の抜擢と悪吏の処罰

嘉慶帝は劉清・趙華・呉桂ら清廉な官吏を優遇するよう命じる一方、無実の富戸を拘束して私腹を肥やした達州知州戴如煌、無辜の民を大量に連座させた武昌同知常丹葵らを京師に召還し処罰させた。勒保には流民の安置を命じるなど、民心の安定を図る施策を進めた。

統帥の相次ぐ更迭

和珅の庇護下で戦功を偽っていた諸将は次々と処断される。宜綿は無為のまま解任、恵齢も功なく召還、和珅の縁者である景安は怠慢と虚偽の戦功奏上を理由に逮問された。勒保も統率の無策・軍費の浪費・虚偽奏報を四箇条にわたって糾弾され、経略の任を解かれて逮問、明亮が代理を務めることとなった。さらに明亮と永保の相互弾劾が起こり、陝西巡撫松筠の調査を経て両者とも罷免、額勒登保が経略に任じられた。

額勒登保・徳楞泰・二楊の活躍

額勒登保は海蘭察の下で育った将で、満文訳の『三国演義』を愛読して兵法を体得したという逸話を持つ。配下の楊遇春・楊芳(ともに漢人の名将)や郷勇の羅思挙・桂涵らを重用し、実効ある指揮で軍を立て直した。額勒登保は詳細な戦況分析を上奏し(内容:湖北は堵に重きを置き、四川陝西境は堵剿並重、四川は剿に重きを置くべしとする方略、寨を築かせて包囲殲滅を図る策など)、戦局は好転し始める。

冉天元との激戦

徳楞泰は高均徳を捕えたが、その残党を集めた冉天元が徐天徳と合流し猛威を振るう。額勒登保配下の穆克登布は独断で先走って冉天元の伏兵に包囲され大敗、続く戦いでも苦戦を強いられた。徳楞泰も冉天元に馬蹄岡で幾重にも包囲され(詩ではなく地の文で危機一髪の激戦の様子が描かれる)、三日三晩の死闘の末ついに冉天元を組み伏せて生擒し、危機を脱した。

白蓮教の終息

その後、額勒登保は王廷詔を、徳楞泰・明亮は徐天徳・樊人傑を追い詰めてそれぞれ討ち取り、河南では教主劉之恊も捕縛され処刑された。嘉慶帝は「邪教に従った者は罰せず、反乱に加わった者のみを罰する」との方針を示す詔を重ねて発し、投降を促した。嘉慶六年の夏までに、川・楚・陝三省の主だった首領はほぼ討伐され、白蓮教の乱は大勢として終息に向かった。

評語

嘉慶帝の親政は佞臣を退け忠臣を用いる姿勢を示し、和珅を誅してから軍務は好転し、勒保を退けてから賊勢は次第に鎮まった。国の治乱は君主の明暗にかかることが分かる。額勒登保・徳楞泰らが功を成し得たのも君主が人を知る力あってのことだが、七年にわたる戦役で万民が苦しんだ事実は重く、後の太平天国の乱を待たずして、すでに清朝衰退の兆しはここに現れていたと言える。