清史演義第四十三回 賊寨を撫し首領擒えらる/朝綱を整え権相法に伏す (撫賊寨首領遭擒 整朝綱權相伏法)
勒保の入蜀と王三槐討伐
勒保は四川に入り、王三槐の討伐にあたるが小さな戦果を誇張して報告し、嘉慶帝から「入蜀第一の功」と評されるほどであった。実際には湖北の教徒(斉王氏・姚之富死後の残党)が四川北部の教徒と合流を図り、李全・高均徳、張漢潮・劉成棟らが陝西・湖北から四川へ流入する事態となった。清廷は各将に持ち場を割り当てたが、勒保は王三槐の拠る東鄉県安楽坪を攻めきれず損害を重ね、戦果を偽って奏上したため、ついに嘉慶帝から欺瞞を見抜かれ譴責を受けた。
郷勇を囮にする策の失敗
勒保は郷勇を先陣に立てて損害を隠す策を用いたが、郷勇の功が横取りされたことに不満が募り、郷勇と官兵の連携が崩れて策は失敗した。
劉清による王三槐の招撫と裏切り
文案係の進言により、清廉で「劉青天」と慕われた建昌道の劉清に招撫を命じる。劉清は当初懐疑的だったが、王三槐は勒保への不信を語りつつも劉清を信じて自ら陣営に赴いた。しかし勒保は入営した王三槐を捕縛し、劉清の抗議にも「朝廷の裁可次第」と取り合わなかった。人質に取られていた劉清配下の劉星渠は脱出したが、都司は捕虜のままとなり、劉清は勒保の不誠実に憤って辞去した。
王三槐の京師送還と和珅一族の栄進
勒保は王三槐生擒の功で威勤公に封じられる一方、太上皇の意向で和珅は公爵、福長安は侯爵に進む。安楽坪の残党は都司を殺害し冷天禄を頭目に抗戦を続けた。徐天徳も招撫を避けて抵抗を強め、川北の羅其清・冉天儔は額勒登保・徳楞泰らに討たれたが、宜綿・景安ら他の将は戦わず実効なく、景安は「迎送伯」と揶揄された。
太上皇の崩御と和珅の失脚
嘉慶四年、皇后喜塔臘氏の死去に続き太上皇(乾隆帝)が崩御する。嘉慶帝は服喪しつつも直ちに諸将に厳しい詔を発し、軍務の怠慢を糾弾。数日後には和珅・福長安を捕縛・下獄させた。和珅一族は嘉慶帝の異母妹にあたる十公主に泣きすがって助命を求め、公主自身も入宮して嘆願する。嘉慶帝は和珅本人の処罰は変えなかったが、公主の願いを容れて家族の連座は免じた。
和珅の処罰と莫大な家産の没収
御史広興らの弾劾により和珅の罪状は二十ヶ条に及び、抄家(家産没収)の結果、金銀財宝・毛皮・織物・不動産など膨大な財産が明らかになった(金・銀・宝石・毛皮・反物・田宅など多岐にわたる莫大な蓄財の目録が記される)。総額は当時の清朝歳入の数年分に相当したという。和珅は自尽を命じられ、福長安は投獄、和琳の爵位も剥奪された。娘婿の豊紳殷徳のみ十公主の縁により罪を免れた(詩:権奸和珅の貪欲は古来類を見ず、死一つでは償いきれぬが、姻戚の縁ゆえ妻子は特赦されたと詠む)。
評語
王三槐は邪教を口実に反乱を起こした咎を免れぬが、いったん招撫して降らせた以上、京師へ檻送するのは信義に悖る行いであった。勒保は目先の功名を求めて後患を顧みず、和珅の庇護のもとに公爵に封じられたが、和珅の失脚とともにその栄達も危うくなる。和珅は二十余年にわたり権勢を握り、私財は当時の清朝の歳入数年分にも及んだが、結局すべて没収されるに至った。貪官汚吏の末路はかくの如きものであり、後世の為政者への戒めとすべきである。