清史演義第三十四回 八路に分かれ苗穴を平ぐ/千秋を祝い暗に華齢を促す (分八路進平苗穴  祝千秋暗促華齡)

乾隆帝の寛政と苗疆再征

  • 乾隆帝は即位早々、宗室の幽閉者を釈放し、允䄉・允禵を公爵に復し、阿其那・塞思黑(允禩・允禟)の宗籍・紅帯も回復させるなど寛大な施政を示す。生母鈕祜祿氏を皇太后とし、富察氏を皇后に冊立。汪景祺・査嗣庭の家族の罪も赦す。
  • 未平定の雲貴の苗乱には迅速に対処し、張照・哈元生・董芳を治罪する一方、張廣泗を七省経略に任命。張廣泗は「兵力を分散させたことが敗因」と分析し、まず熟苗を懐柔して繳凶献械させ、その間に生苗の本拠を直接衝くという方針を上奏し許可される。

牛皮大箐の攻略

  • 乾隆元年、八路の援軍を集中投入して各地の苗の抵抗を掃討し、残る生苗は険阻な牛皮大箐(周囲約五百里の要害)に籠る。
  • 張廣泗は箐の入口を包囲し兵糧攻めにする策を取り、半月ののち進撃。火攻めで箐内を焼き払い、抵抗する者は斬り、投降者は禁令により無用な殺戮を控えさせて保護した。
  • 最終的に千二百余寨を破壊、三百八十余寨を赦免、苗民一万七千余を斬り二万五千余を捕虜とする大戦果を挙げ、雲貴の乱はほぼ鎮定。張廣泗は貴州総督を兼任し、苗疆の租税は永久免除、苗族の訴訟は苗の慣習に従うことが定められた。

太平の中の文治と円明園

  • 苗疆平定後、乾隆帝は礼楽の制定を鄂爾泰・張廷玉に命じ、また世宗の遺志を継いで博学鴻詞科を開き、全国から集まった文士百七十六名から十五名を選抜して翰林院に登用する。
  • 暢春園・円明園・長春仙館を一体に改築する大規模な造園工事を行い、内外の珍品を集めて陳列するなど、秦の阿房宮や隋の顕仁宮に比すべき豪奢を極めた。

傅夫人をめぐる情事

  • 完成した円明園に皇太后・后妃・命婦らを招いた遊覧の際、乾隆帝は皇后の義姉にあたる内務府大臣傅恒の夫人(傅夫人)の美貌に心を奪われる。
  • 皇后の千秋節(誕生日)の祝宴に傅夫人を招き、聯句の席で乾隆帝は「両家並作一家春」と詠み傅夫人の歓心を得る。宴後、酔った傅夫人は別室で休むが、皇上も席を外し、後に女官の含みのある報告や皇后の皮肉な一言から、両者の関係が仄めかされる。

皇后富察氏の悲劇と崩御

  • この一件以降、皇帝と皇后の仲は次第に疎遠になる。さらに嫡子の永璉(乾隆三年)、次いで永琮(生後二年)が相次いで病死し、密かに立てられていた皇儲を失った皇后は深く悲嘆する。
  • 乾隆帝は皇太后とともに皇后を伴い山東を巡幸して気晴らしを図るが、道中で皇后は風邪をこじらせ重篤となり、徳州へ戻る途中で「謝恩」の一言を残して崩御した。後人はこれを悼む詩を残している。皇太后は乾隆帝を先に帰らせ、自らは荘親王・和親王とともに緩やかに還京し、乾隆帝は皇后の柩とともに帰京する。

評語

苗疆が平定されていなければ乾隆帝にこの安逸はなく、皇后の千秋節のにぎわいもなかったであろう。傅夫人という「虢姨」が現れなければ内心の乱れも起きなかったはずで、皇后富察氏の早世にはそうした背景があったとほのめかす。前半の平苗の場面は威勢に満ち、祝宴の場面は喜びに満ちるが、末尾は一転して哀切な皇后の死で締めくくられ、栄枯盛衰の理を悟らせる構成になっていると評している。