清史演義日暮れ途窮まり異域に身を寄す/水流れ花散り塵寰に手を撒く(第二 十回 日暮途窮寄身異域 水流花謝撒手塵寰)

鄭成功の南京攻略とその失敗

  • 鄭成功は南京への進攻にあたり、部将の甘輝から「兵を分けて揚州・京口を押さえ、まず南畿を孤立させるべき」と献策されるが、清の南京守備が手薄と見て聞き入れず、単独で南京を包囲した。
  • 両江総督郎廷佐は偽って開城を約束し、半月の猶予を求める書状を送る。実はこれは雲貴で清軍が勝利し援軍が東に回せるようになるまでの時間稼ぎであったが、成功はこれを信じて攻撃の手を緩めてしまう。

雲貴における桂王軍の壊滅

  • 孫可望が清の洪承疇に降ったことを機に、清は呉三桂・卓布泰・洛託らを三路から雲貴へ進発させる。李定国ら明軍もこれを迎え撃つが、七星関・黄草壩・北盤江と次々に敗れる。
  • 桂王は雲南から永昌へ逃れ、李定国は磨盤山に伏兵を敷いて清軍を待ち構えるが、故明の官僚盧桂生が清軍に伏兵の所在を密告したため計略は破れ、竇名望・王璽ら将が戦死する。
  • 桂王はさらに緬甸領内へ逃げ込み、従者ともども武器を捨てさせられ、みすぼらしい姿で緬甸の民家に身を寄せる屈辱を味わう。

順治帝の江南出兵と南京の攻防

  • 雲貴平定の知らせに順治帝は喜ぶが、間もなく鄭成功が江南で猛威を振るい南京周辺の府県を陥落させたとの報が届き、動揺する。厭世的な言葉を漏らしつつも自ら親征する意向を示し、南苑で閲兵を行う。
  • 実際には江南提督梁化鳳が夜襲によって鄭軍の先鋒余新を捕らえ、主将甘輝の陣も突き崩して甘輝を討ち取る。鄭成功は江上から敗報を知り、追撃を受けながら辛くも廈門へ逃げ帰る。
  • 張煌言も徽州・寧国方面で奮戦していたが、鄭軍敗退の報を受けて清軍の重囲を突破し、単身逃れて浙江沿岸を経て海上に出る。

台湾攻略と鄭成功の死

  • 張煌言は鄭成功に対し、台湾など海外の島を求めて安住地を捨てるべきでないと書状で諫めるが、鄭成功は既に台湾攻略を決意していた。
  • 鄭成功は艦隊を率いて台湾に進み、オランダ人(紅毛夷)と和議を結んでこれを退去させ、台湾を根拠地とする。張煌言は返書がないまま台州の南田島に隠棲する。

呉三桂の「三患二難疏」と桂王の最期の伏線

  • 雲南に留まる呉三桂は、李定国らの残存勢力・土司の反乱・投降将士の離反という「三患」と、糧食調達の困難という「二難」を挙げ、徹底討伐を上奏する。
  • 順治帝は乗り気でなかったが群臣に押し切られ、内大臣愛星阿を派遣して呉三桂とともに緬甸へ進撃させ、緬甸側に桂王の引き渡しを迫らせる。

順治帝の崩御と康熙帝の即位

  • 順治帝は寵愛する董鄂妃を皇后に准じて厚く遇していたが、董鄂妃は病没する。順治帝は深く悲しみ喪に服し、その後まもなく崩御する。
  • 遺詔により、佟氏所生の第三子玄燁(八歳)が跡を継ぎ、索尼・蘇克薩哈・遏必隆・鼇拜の四大臣が輔政することとなる。翌年に改元し「康熙」と号する(清聖祖)。
  • 順治帝の死をめぐっては、出家して五台山に入ったのではという巷説(清涼山贊佛詩)も伝わるが、真偽は定かでないとする。

評語

明の滅亡を最終的に成し遂げたのは洪承疇と呉三桂であり、二人とも元は明臣でありながら旧主への情を持たなかった。清の世祖(順治帝)自身はなお明の血脈に一片の温情を残す意志があったとも見られるが、この二臣の主導によって事は既定路線となった。後年、栄華を捨て悟りを開いたとされる順治帝の生き方は、まさに執着からの解脱と評すべきものであり、読者はこの回から褒貶の分かれ目を読み取るべきである。