清史演義第一十七回 宗支を立て粤西に残局を存す/偏疆に殉じ岩下双忠を表す (立宗支粤西存殘局 殉偏疆岩下表雙忠)

紹武帝の擁立と桂王との争い

  • 唐王死後、弟の聿が広州で蘇観生らに擁立され、紹武帝として即位。倉卒の即位で冠服も間に合わないほどであった。
  • 同時期、肇慶では神宗の孫にあたる桂王朱由榔が丁魁楚・瞿式耜らに擁立され、永暦帝として即位。
  • 桂王側は紹武帝に藩王の礼を求め使者を送るが、蘇観生は激怒して使者を殺害し、両勢力は交戦。当初は紹武側が優勢だったが、瞿式耜の反撃で持ちこたえる。

紹武帝の滅亡

  • 清将李成棟が広州に迫り、油断していた蘇観生は突然の攻撃に対応できず、逃亡先で自縊。梁鍙が屍を清軍に献上し、聿(紹武帝)も捕らえられて自縊する。

桂王政権の後退と丁魁楚の末路

  • 李成棟は広州を得た後、肇慶へ進軍。桂王側近の司禮監王坤は西方への退却を進言し、丁魁楚もこれに同調して桂王は逃走。瞿式耜は反対するが及ばず。
  • 丁魁楚は密かに李成棟へ投降を図るが、家族もろとも捕らえられ、財産・妻子を奪われたうえ処刑される。

瞿式耜の桂林防衛

  • 桂王はさらに武岡へ逃れ、鎮将劉承胤に迎えられるが、承胤は次第に専横し、王坤を追放するなど桂王を脅迫する。
  • 瞿式耜は桂林に留まり、焦璉とともに清兵の攻撃を撃退。夫人の簪珥まで軍費に充てて士気を鼓舞し、桂林・平楽・梧州を奪還する。
  • 桂王は武岡から更に迫害を受け、湖広総督何騰蛟に救援を求める。

何騰蛟の苦闘と孔有德の南下

  • 孔有徳率いる清軍が湖南へ侵攻し、騰蛟は各地で敗走。桂王の命で趙印選・胡一青の援護を得てからくも脱出し、桂林の瞿式耜のもとへ身を寄せる。
  • 武岡は陥落し劉承胤は清に降伏。
  • 孔有徳は桂林攻略を目前にしていたが、金声桓・李成棟の明への帰順(反正)の報を受け、急遽湖南へ引き返す。

金声桓・李成棟の反正

  • 金声桓(もと左良玉部将)は江西を平定した功に対し清朝の処遇に不満を持ち、王得仁とともに永暦帝側へ帰順。姜曰広を擁立して江西全域に号令する。
  • 広東の李成棟も愛妾珠圓の勧めで反正を決意。珠圓は「清は異民族、われらは漢人。同族を裏切ってよいのか」と諭したのち、成棟の身を案じ自ら命を絶つ。成棟は感激し反正を決行、佟養甲を捕らえ桂王側に帰順する。
  • これを機に各地の勢力が桂王に呼応し、一時は清朝を大いに慌てさせる。

清朝の反撃

  • 摂政王多爾袞は譚泰・和洛輝・耿仲明・尚可喜らを江西・広東へ、勒克德渾・孔有徳らを湖南・広西へ派遣し、洪承疇は江寧に留めて沿海を統括させる。
  • 江西では金声桓が譚泰の伏兵にかかり負傷。南昌は籠城戦の末、清軍の奇襲(王得仁の婚礼の夜を狙う)により陥落。金声桓・姜曰広は自害、王得仁(王雑毛)も戦死する。
  • 贛州は李成棟の攻略中に王進庫の抵抗に遭い苦戦。成棟は退却の途中、酔って河を渡ろうとして溺死。広州は清軍に奪還される。

何騰蛟の最期と瞿式耜・張同敞の殉節

  • 湖南でも清軍(済爾哈朗)が進撃し、何騰蛟は旧部将徐勇の裏切りにより捕らえられ、断食して七日後に死去。
  • 孔有徳が桂林に迫るも、瞿式耜は援軍を得られず孤立。兵部の張同敞が共に死ぬ覚悟で馳せ参じる。
  • 清軍に捕らえられた瞿式耜は孔有徳の懐柔(官職を与える提案)を毅然と拒絶。張同敞は孔有徳を痛罵し殴打される。
  • 両者は幽閉のうえ懐柔を試みられるが応じず、詩を唱和して過ごしたのち処刑される。式耜は「山水を愛したのでここで死にたい」と述べ、同敞は白い網巾をまとって従容と死に就く。
  • 式耜の孫昌文も清軍に捕らえられるが、奇怪な出来事(憑依のような現象)があり、孔有徳は昌文の助命を約束する。
  • 瞿式耜の絶命詩が伝えられている。

評語

何騰蛟・瞿式耜の二公は桂王を擁立し、艱難に屈せず四方に号令したことは、蘇観生の所業に比べればはるかに優れている。梁鍙・丁魁楚・劉承胤らについては論評するまでもない。何・瞿の二公は労苦を尽くしながらも、最後には孤立無援となった点で、忠義はあっても才識が及ばなかったと言えよう。金声桓・李成棟の反正も、その反覆常なき陰険さは取るに足らず、たとえ勝っていたとしても桂王のためになったかは疑わしい。彼らもまた梁鍙・丁魁楚・劉承胤の同類である。本回は何・瞿二公の合伝とし、張同敞を付して敘した。