清史演義輜重を失い全軍敗潰す/美色に迷い大帥投降す(第 十 回 失輜重全軍敗潰  迷美色大帥投誠)

清の再侵攻と錦州・松山の対峙

清軍はいったん優勢のまま太宗の命で本国に引き揚げたが、太宗は「山海関を奪うにはまず寧遠・錦州を落とすべし」と説き、多爾袞・多鐸らに再び錦州攻めを命じた。守将祖大壽は二年にわたり頑強に抵抗し、清の名将岳托を戦死させるほどだったが、太宗自ら出陣して城外の作物を刈り取り、兵糧攻めに転じた。

崇徳六年、太宗は大軍で錦州を攻め、大壽は薊遼総督洪承疇に救援を求めた。洪承疇は王樸・唐通・曹変蛟・呉三桂ら八総兵、十三万の兵を率いて寧遠から出陣し、松山に布陣した。太宗は范文程を伴い地形を視察し、松山の背後に塔山があることを知ると、多爾袞・阿済格に間道を進ませ、明軍の兵糧を密かに襲わせた。夜襲は成功し、明軍の輜重は奪われた。

松山の激戦と明軍の壊滅

洪承疇は輜重を奪われて激怒し、清営への総攻撃を決意。王樸・唐通を第一隊、白広恩・王廷臣を第二隊、馬科・楊国柱を第三隊、曹変蛟・呉三桂を第四隊とし、夜襲を仕掛けたが、清軍はあらかじめ伏兵を配していたため各隊とも撃退され、洪承疇の本営まで清兵に突入される事態となった。曹変蛟・呉三桂らが駆けつけ辛うじて清兵を退けたものの、明軍は大きな損害を被った。

その後、明軍が退却を図ると、清の伏兵が杏山・塔山周辺に張り巡らされており、六総兵は次々に窮地に陥った。王樸は真っ先に杏山城へ逃げ込み、残る五総兵も清の偽装した「明軍旗」の部隊に翻弄され、杏山城へ逃げ込むほかなかった。

松山陥落と洪承疇の捕縛

洪承疇・邱民仰らは松山城に籠城するが、清軍に包囲され食糧も尽きる。太宗は范文程の献策により招降策を用い、副将夏承徳を内応させて松山城を陥落させた。城中で曹変蛟・王廷臣が戦死し、邱民仰は自刎、洪承疇も自死を図るが夏承徳らに取り押さえられ捕虜となった。太宗は范文程に説得を命じるが、洪承疇は頑として降伏を拒み続けた。

その間、清は錦州・杏山・塔山も次々に攻略し、祖大壽もついに降伏した。

荘妃の説得

洪承疇がどうしても降らぬまま日が過ぎるうち、太宗の寵愛する永福宮荘妃(ボルジギト氏)が自ら幽閉室を訪れ、色香を漂わせながら参湯を勧め、家族への配慮や和議の趣旨を説いて心を動かした。洪承疇はついに承知の意を示し、これにより降伏が成立した。太宗はこれを喜び、荘妃をますます寵愛し、その子福臨(後の世祖章皇帝)を太子に立てた。

評語

楊鎬・洪承疇いずれも大軍を率いながら清軍に敗れたのは将帥の器量の差であり、洪承疇が降伏したことは楊鎬の敗北よりもさらに罪深いと評す。『貳臣伝』を読めば洪承疇の事跡が分かり、本書を読めばその心中の弱さがなお一層明らかになる、と結ぶ。