清史演義明の守将、城を献じ友を売る/清の太宗、璽を獲て尊を称す(第 八 回 明守將獻城賣友  清太宗獲璽稱尊)

通州退却と劉之綸の戦死

  • 太宗は長期包囲の不利を説いて撤退を決断、通州経由で東へ転じ香河・永平を陥す。遵化付近では、兵部侍郎劉之綸が孤軍で満洲軍を迎え撃つが、約束していた総兵らの援軍が来ず、力戦の末に戦死した。

大凌河包囲戦

  • 太宗は遷安・灤州・昌黎へと進むが昌黎は撃退される。孫承宗が袁崇煥に代わり山海関を守ると聞き帰国。まもなく崇煥が磔刑に処されたとの報が届き、太宗は喜ぶ一方「大凌河はまだ落ちていない」と范文程に釘を刺される。
  • 紅衣大砲の製造を進め、翌年秋、遼東巡撫邱禾嘉との不仲もあって防備が整わぬ大凌河城を包囲。援軍の呉襄・宋偉らは天候の急変にも翻弄され敗退した。

祖大弼の夜襲と祖大寿の降伏

  • 籠城する祖大寿・何可綱のもと、猛将祖大弼が百二十人の決死隊で夜襲をかけ太宗の本陣にまで斬り込むが、アジゲらの護衛に阻まれ引き上げる。
  • やがて城内は食料が尽き人を食うほどに窮迫。祖大寿は密かに投降を決め、反対する何可綱を射て満洲軍に引き渡し、自らも降伏した。何可綱は降伏を拒み従容として刑に服した。
  • 祖大寿は太宗に、偽って逃亡した体で錦州に戻り内応すると申し出て許される。

孔有德・耿仲明の旅順攻略

  • 登州で反乱を起こした孔有徳・耿仲明は明軍に敗れ満洲へ帰参し、旅順を奇襲して総兵黄龍を討ち取り副将尚可喜を降す。三将はそれぞれ王号を与えられ、満洲の開国功臣として遇された。

チャハル部平定と伝国璽獲得

  • 太宗はチャハル部(蒙古)の背後を突いて首長リンダンハンを敗走させ、四路に分かれて明の辺境を荒らして帰還。リンダンハンは青海で病没し、その子額哲が元朝伝来の伝国璽を携えて降伏した。

清建国と太宗の即位式

  • 璽を得た太宗は大いに喜び、諸貝勒・外藩の推戴を受けて三院(内国史院・内秘書院・内弘文院)を新設。国号を「大清」と改め、天聰十年を崇徳元年とし、盛大な即位の儀を行った。
  • 太祖への諡号追封、王公百官への叙封(代善は礼親王、済爾哈朗は鄭親王、ドルゴンは睿親王など)が行われ、孔有徳・耿仲明・尚可喜も王号を得た。ただし一国の使者だけが跪拝の礼を拒み、太宗の不興を買う。

評語

満洲軍は当初遼西を専ら攻めていたが、嚮導を得て蒙古経由の間道を用いるようになってからは自在に出没するようになった。明は各所に防備を分散させ受身に回るほかなく、勝敗の帰趨はすでに定まっていたと言える。チャハル部の帰属により長城以北はことごとく満洲の手中に落ち、明はもはや防ぎようがなかった。伝国璽の獲得を天意と見る向きもあろうが、璽の得失自体が興亡を決めるわけではない。太宗の称帝改号は、実のところ明を図る野心の発露であり、璽の獲得はその好機を捉えたに過ぎない。とはいえ、清二百数十年の国祚はこの称帝改号に始まる。ゆえに本書はこれを詳述する。