新五代史卷七十 東漢世家第十 繼元
要約
継元は残忍な人物であった。旻の子で継元の諸父にあたる鎬・鍇・錡・錫らをことごとく殺し、独り愚を装った銑のみが難を免れた。承鈞の妻郭氏を、実子の妻段氏の死を疑って寵臣范超に命じ、承鈞の柩前で哭していたところを縊殺させ、劉氏の血筋を絶やした。
即位すると改元して広運とし、宋の親征に対して城を閉じて拒守した。太祖は招降しようとし郭無為にも節度使を許したが、无為が動揺を見せると宦者衛徳貴の密告で継元は无為を縊殺した。太祖は汾水を引いて城を浸させたが、城中は積み草で水を防いだうえ折からの暑雨で王師に疫病が広がり撤退した。継元はその後城下の水を落として台駘沢に流し、契丹の使者韓知璠は「先に浸してから涸らせば并の人々は生き残れなかったろう」と嘆じた。
太平興国四年(979)、宋の再度の北征を受け窮迫したが并の人々はなお籠城を続けた。老疾の枢密副使馬峰が輿に乗って涙ながらに興亡を諭したことでついに降伏した。太宗は城北の高台で降を受け、継元を右衛上将軍・彭城公に封じた。北漢は周の広順元年の建国から太平興国四年の滅亡まで、凡そ二十八年であった。
年表
繼元は継恩の弟で、郭無為に擁立されて立った。性格は残忍で、諸父や養母郭氏まで殺害し劉氏の血族をほぼ絶やした。宋の太祖・太宗の再三の北征に対し孤城を堅守したが、太平興国四年についに降伏し、右衛上将軍・彭城公に封じられて北漢は滅んだ。
年表(1件)
- 太平興国四年979年宋軍の北征により降伏し、右衛上将軍・彭城公に封ぜられる
現代語訳全文
継元の暴虐
- 継元の人となりは残忍であった。旻の子十余人はみな称すべき者が無かった。継元の時にあたり、鎬・鍇・錡・錫があり、継元にとっては諸父にあたったが、みな継元に殺され、独り銑のみが佯(いつわ)って愚を装い難を免れた。
- 承鈞の妻の郭氏は、継元兄弟が幼いころよりこれを母としていた。継元の妻の段氏はかつて小過をもって郭氏に責められたことがあり、その後、他の病で卒したが、継元はこれを郭氏が殺したのだと疑った。立つに及んで、嬖者(へいしゃ、寵臣)の范超を遣わして郭氏を図殺させた。郭氏はまさに縗服して承鈞を柩前で哭していたところ、超はこれを執えて縊殺した。ここにおいて劉氏の子孫に遺類(生き残り)は無くなった。
宋の親征と降伏
- 継元が立つと、改元して広運とした。王師が北征すると、継元は城を閉じて拒守した。太祖は詔書をもって継元を招いて出降させようとし、平盧軍節度使を許し、郭無為には安国軍節度使を許した。無為は詔を捧げて顔色が動いたが、并の人々および継元の左右はみな堅守して命を拒もうとした。無為は天を仰いで慟哭し、佩刀を抜いて自裁しようとしたが、左右にこれを持(おさ)えられた。継元は自ら下ってその手を執り、これを延(ひ)いて上坐に座らせた。無為は言った、「孤城をもって百万の王師をどうして拒めましょうか」と。おおよそ并の人々の意を揺り動かそうとしたのであったが、并の人々は守る意をますます堅くした。宦者の衛徳貴は無為に異志があることを察し、これを継元に告げ、継元は人を遣わしてこれを縊殺した。
- 初め、太祖は汾水を引いてその城を浸すよう命じ、水は城門より入ったが、積み草が城中より飄(ひるがえ)り出てこれを塞いだ。この時、王師は甘草の地中に頓(とど)まっていたが、たまたま歳の暑雨に会い、軍士は疾病が多く、そこで班師した。王師がすでに去ると、継元は城下の水を決(き)って台駘沢(たいたいたく)に注ぎ、水はすでに落ちて城は多く摧(くだ)け圯(やぶ)れた。契丹の使者韓知璠はこの時太原にあり、歎じて言った、「王師が水を引いて城を浸したのは、その一を知って、その二を知らなかった。もし先に浸してから後で涸(か)らすことを知っていれば、并の人々は遺類(生き残り)が無くなっていたであろう」と。
- 太平興国四年(979年)、王師はまた北征し、継元は窮窘(きゅうくん、困窮)したが、并の人々はなお堅守しようとした。その枢密副使の馬峰は老疾であったが、家より舁(かつ)ぎ入れられて継元に見え、流涕してもって興亡を諭したので、継元はそこで降った。太宗は城北の高台に御して降を受け、継元を右衛上将軍とし、彭城公に封じた。その後の事は国史に具(つぶさ)に載る。