新五代史卷六十八 閩世家第八 王繼鵬

要約

継鵬は鏻の長子で、名を昶と改め通文と改元した。父を弑した功臣李倣が六軍諸衛事を握り死士を養って自らに備えていたのを恐れ、大閲の機に甲兵を伏せて捕らえ誅殺したが、その残党千人が啓聖門を焼いて叛き呉越に逃亡する事態を招いた。

晋への朝貢では、使者盧損を主客の礼で応対せず佞臣劉乙を軽んじたことから晋の高祖の怒りを買い、方物を却下されて使者鄭元弼が獄に下されるなど外交でも失策を重ねた。妖術・道教に深く耽溺し、道士譚紫霄・陳守元、妖人林興を重用して黄金数千斤を投じ三清台を築き香を焚き続けるなど散財を極め、虹の出現を口実にした林興の讒言で宗室の延武・延望父子ら七人を粛清させたが、後に興自身も事が露見して殺された。

父の婢春鷰を淑妃、後に皇后に立て、医者に空名の官位証書を売らせるなど乱脈な統治を続け、弟継厳を疑って軍権を罷免し末弟継鏞に宸衛都を委ねてこれを厚遇したことが控鶴都将連重遇・拱宸都将朱文進の反感を買った。南宮の火災を側近陳郯の密告で重遇の放火と疑ったことが露見すると、重遇は先手を打って夜に南宮を焼き討ちし、昶は脱出を図るも延羲配下の継業に追いつかれて弓を捨て、妻子ともども殺害された(康宗)。延羲が擁立されて跡を継いだ。

年表

王繼鵬(昶)は王鏻の長子。父を弑した李倣を誅殺して即位し、通文と改元した。晋への朝貢をめぐり使者を侮辱して関係を悪化させ、道教に惑溺して宗室を殺すなど国政を乱した。控鶴都将連重遇の反乱により南宮を焼かれて出奔し、追手に殺された。

年表(3件)
  • 天福二年父を弑した李倣を誅殺して即位し、晋に朝貢する
  • 通文三年宗室延武・延望父子とその子五人を殺害する
  • 通文三年連重遇に南宮を焼かれ脱出するが追いつかれて殺される

現代語訳全文

内乱と横死

  • 継鵬は鏻の長子である。すでに立つと、名を昶と改め、改元して通文とした。李倣に六軍諸衛事を判せしめた。倣には君を弑した罪があり、昶を立ててからも心中常に自ら疑い、多くの死士を養って備えとしていた。
  • 昶はこれを患い、そこで大いに軍を饗する機会に甲兵を伏せて倣を捕らえて殺し、その首を市に梟した。倣の部曲千人が叛き啓聖門を焼いて倣の首を奪い、銭塘(呉越)に逃げ込んだ。
  • 晋の天福二年、昶は使者を遣わして京師に朝貢した。高祖は散騎常侍の盧損を遣わして昶を閩王に冊封し、その子の継恭を臨海郡王に拝した。損が閩に至ると、昶は病と称して会わず、継恭にこれを主らせた。
  • また中書舎人の劉乙を遣わして損を館で労わせた。乙は衣冠が偉然としており供の従者もはなはだ盛んであった。後日、損が乙と路で会ったとき、乙は布衣・芒履(藁草履)に過ぎなかった。損は人を遣わしてこれを誹って「鳳閣舎人がなぜこれほど下手に出るのか」と言うと、乙は羞じて手で顔を覆って走り去った。
  • 昶はこれを聞いて怒り、損を次第に侵辱した。損は還り、昶は何も答えなかったが、その子の継恭はその佐の鄭元弼を損に随わせて京師に至らせ、方物を貢し晋の大臣に書を致して、昶の意として敵国の礼をもって往来したいと述べさせた。
  • 高祖はその不遜を怒り、詔を下してその罪を暴き、その貢物を帰し受け付けなかった。兵部員外郎の李知損は上書してその物を没収し使者を禁錮するよう請うた。そこで元弼は獄に下された。
  • 獄が成って引見されると、元弼は俯伏して「昶は夷貊の君であり礼義を知りません。陛下はまさに大信を示して遠人を招こうとしているのに、臣は使命を果たせず無様な有様です。願わくは斧鑕に伏して昶の罪を贖いたく存じます」と言った。高祖はそこで元弼を赦して帰した。
  • 昶もまた巫を好み、道士の譚紫霄を正一先生に拝し、陳守元を天師に拝した。妖人の林興は巫術によって寵幸され、事は大小を問わず興が宝皇の言葉と称して命じ、その後に行われた。
  • 守元は昶に三清台を三層に建てさせ、黄金数千斤で宝皇と元始天尊・太上老君の像を鋳造させた。日ごとに龍脳・薫陸などの香を数斤焚き、台の下で楽を奏でて昼夜声を絶やさなかった。「このようにすれば大還丹を求めることができる」と言われた。
  • 三年の夏、虹が宮中に見えた。林興は神の言葉を伝えて「これは宗室が乱を為そうとする兆しである」と言った。そこで興に壮士を率いさせ、審知の子の延武・延望およびその子五人を殺させた。後に興は事が敗れて彼もまた殺された。しかし昶はいよいよ惑乱した。
  • 父の婢である春鷰を立てて淑妃とし、後には皇后とした。また医者の陳究を遣わして空名の堂牒(任官証書)を売らせた。昶の弟の継厳は六軍諸衛事を判していたが、昶は疑ってこれを罷め、末弟の継鏞に代えさせ、勇士を募って宸衛都とし自らを衛らせた。
  • その賜与や賞与は他の軍に比べて独り厚かったので、控鶴都将の連重遇と拱宸都将の朱文進は皆これを怒って軍を刺激した。
  • この年の夏、術者が「昶の宮中にはまさに災いがあるだろう」と言った。昶は南宮に移って災いを避けたが、その宮中で火が出た。昶は重遇の軍士がこれに放火したのではと疑った。
  • 内学士の陳郯はもとより便佞(へつらい)で昶に親信されていたが、昶が火事のことを語ると、郯はかえってこれを重遇に告げた。重遇は懼れ、夜に衛士を率いて南宮に放火し焼いた。
  • 昶は愛姫と子弟、黄門・衛士を率いて関を斬って脱出し野に宿った。重遇は延羲を迎えて立てた。延羲はその子の継業に兵を率いさせて昶を襲わせ、追いついて数人を射殺した。
  • 昶は逃れられないことを知り、弓を地に投げた。継業はこれを捕らえて殺し、その妻子も皆死んで遺る者がなかった。延羲は立ち、昶を康宗と諡した。