元瓘・佐・俶
- 元瓘、字明宝。若くして田頵の人質となり、頵が楊行密の会稽兵に攻められ戦に敗れるたび元瓘を殺そうとしたが頵の母が庇い、頵の最後の出陣時「今日勝てねば銭郎(元瓘)を斬る」と語ったが頵自身が戦死し元瓘は帰還できた。鏐は病臥中に諸将を集め「私の子はみな愚かで後事を任せられない、諸君で選べ」と語り、諸将は「元瓘こそ父王の征伐に最も功があり他の子は及ばない」と推し、鏐は筐に収めた印鑑を元瓘に授け「諸将が認めた」と告げた。鏐の死後元瓘が立ち呉越国王を襲封、玉冊金印の礼は鏐の故事の通りとした。建州の王延政が自立し閩が大乱すると、元瓘は将仰詮・薛万忠らに攻めさせたが一年余り大敗して帰った。元瓘は儒学を好み詩に長じ、国相沈崧に「択能院」を置かせ呉中の文士を選び登用したが、性は奢侈で宮室造営を好んだ。天福六年(941年)杭州で大火が起こり宮室が焼失、元瓘は消火の度に発火する様を見て恐怖のあまり狂を発病、この年五十五歳で卒し文穆と諡された。子の佐が立った。
- 佐、字祐立、即位時十三歳。諸将は若い佐を軽んじたが、佐は当初優容し、将らが不法を働くようになると大将章徳安(明州)・李文慶(睦州)を黜け、内都監杜昭達・統軍使闞璠を殺し国中を畏怖させた。閩の王延羲・延政兄弟の内紛(卓儼明・朱文進・李仁達らの相攻)に乗じ、李仁達が南唐(李景)に款を通じた後叛き景兵に攻められると、仁達は佐に救援を求めた。諸将は出兵を渋ったが佐は「元帥である私が挙兵できないのか、諸将は皆我が家に養われた身、なぜ先んじないのか」と奮起し統軍使張筠・趙承泰らに水陸三万を率いさせ大勝、南唐将楊業・蔡遇らを捕らえ福州を得て凱旋、以後諸将は服した。佐は在位七年で呉越国王を襲封、開運四年(947年)二十歳で卒し忠献と諡された。弟の俶が立った。
- 俶、字文徳、佐の卒後、兄倧(次に立つべき順)を経て立った。元瓘が宣州に質となっていた頃仕えた胡進思・戴惲らは元瓘の即位後も大将として重用されたが、佐の若さに乗じ旧将を鼻にかけ、倧の即位後は卑侮された不満から進思は不満を募らせた。倧が碧波亭で閲兵し賞を定めた際、進思が賞の過多を諫めると、倧は「軍士に物を与えるのが私事か」と筆を水中に投げ怒った。進思はこれを恐れ、歳末に献上された「鍾馗撃鬼図」に倧が題詩したのを見て自分が殺されると悟り、その夜衛兵を擁して倧を廃し義和院に幽閉、俶を立てた。倧は東府に遷され、俶は漢・周を経て呉越国王を襲封し玉冊金印を賜った。
- 世宗の淮南征討時、俶は常州・宣州を攻め李景を牽制するよう詔された。俶は国内の兵を治め周軍の大挙を聞き境上を戒厳したが、蘇州候吏陳満は南唐の使者を朝廷の使者と誤認し「諸州はすでに周に降った」と誤報、俶の相国呉程は急ぎ出兵を決めたが、相国元徳昭は「周師はまだ淮を渡っていない」と争って止められず、程は常州を攻め南唐将柴克宏に敗れ、裨将邵可遷は子が馬前で戦死しても奮戦を続けた。周軍が淮を渡ると俶は国中の丁民を悉く徴発し、邵可遷らに戦船四百艘・水軍一万七千で通州へ出兵させ会期に合わせた。呉越は唐末以来、楊行密・李昪が江淮を有していたため朝貢は登・莱経由の海路で、しばしば漂流・溺死者を出した。顕徳四年(957年)左諫議大夫尹日就・吏部郎中崔頌らが呉越に使いし、世宗は「この征討で必ず江北を平定する、帰路は陸路で来るがよい」と告げ、翌年淮南平定に伴い日就らは陸路で帰った。世宗はさらに俶に兵甲・旗幟・橐駝・羊馬を賜った。
- 銭氏は両浙を数百年にわたり領したが、その民は諸国と比べ怯弱ながら奢侈・偸生・工巧を好む風があり、鏐の代から重税を課し鶏魚卵に至るまで家々から徴収、笞刑を科す際は帳簿を並べて負債額を唱えて笞数を定め、少なくとも数十、多くは百余に達したという。また嶺南商賈から財貨を掠奪する例もあった。五代を通じ中国への朝貢を絶やさなかったが、世宗の淮南平定と宋の興隆、荊楚諸国の相次ぐ帰服により俶の勢力は孤立、国中を挙げて貢献に努めた。太祖皇帝の代、俶が入朝した際は厚礼で帰国させたが、俶が器物珍奇を献じ続けると太祖は「これは我が府庫の物にすぎぬ、なぜ献じる必要があるのか」と述べた。太平興国三年(978年)、俶は召しに応じ一族を挙げて京師に帰り国は除かれた。その後の事跡は国史に見える。
史論
- 天と人との関係を論じるのは難しい。古来術者は奇を好み偶然の的中を誇るが、英雄豪傑もまた自ら妖祥に託して事を起こすことが多い。それは民衆を惑わす道具として用いられているのかもしれない。銭氏の興隆は功徳の積み重ねによるものではなく、無頼の身から王侯の位に昇った経緯を人々は好んで語り伝える。しかし銭氏の始終を考えれば、一方の民に恩沢を施したとは言い難く、百年の間にその民を甚だしく虐使した。その動いた「気象」(瑞祥とされた現象)が、実はその報いであったのではないか。もっとも当時は天下が分裂し暴虐が横行した時代で、銭氏だけがそうだったわけではないだろう。結局これらは推し量りようのないことである。術者の言は的中しないことが多く的中は少ないが、人は的中した例だけを好んで語り伝えるものである(鏐の興亡年数は諸書一致し、唐乾寧二年に鎮海鎮東軍節度使として両浙を有してより皇朝太平興国三年の国除まで八十四年である)。