新五代史卷六十七 吳越世家第七 錢鏐
錢鏐(字は具美、852–932年)は杭州臨安の人。塩の密売業から身を起こし、黄巣の乱・董昌の乱の平定に功を挙げて呉越国の基礎を築いた。後梁より呉越国王・尚父に冊立された建国者。
出自と黄巣・董昌との攻防
- 錢鏐、字具美、杭州臨安の人。幼時、里中の大木の下で群児を隊伍に組織し号令する遊びをして畏れられた。壮年は無頼で塩の密売を業としたが、県録事鍾起の子らと交わった。豫章の術者が「牛斗間に王気あり、それは臨安にある」と占い臨安に隠れ住み、起の家で鏐を一目見て「この人こそ貴人だ」と驚嘆し、鏐に「子の骨相は非常のもの、自愛せよ」と告げて去った。
- 唐乾符二年(875年)、浙西の裨将王郢が乱を起こすと石鑑鎮将董昌が郷兵を募り、鏐は偏将として郢を破った。この頃黄巣の軍が浙東を掠め臨安に迫ると、鏐は「兵少なく力戦は不利」として精兵二十人を伏せ、巣の先鋒の単騎を弓で射殺し混乱させて数百級を斬った。さらに「八百里」という地名を利用し、道端の老婆に「臨安の兵は八百里に屯している」と言わせる計で巣の大軍を怖じ気づかせ通過させた。都統高駢はこれを聞いて鏐を賞し、董昌を杭州刺史に上表した。天下が乱れる中、昌は諸県兵を八都に編成し鏐を都指揮使、成及を靖江都将とした。
- 中和二年(882年)、越州観察使劉漢宏と昌が対立、漢宏の弟漢宥・都虞候辛約が西陵に屯すると、鏐は八都兵で渡江しその営を焼いた。漢宏の将黄珪・何肅の諸暨・蕭山攻めも鏐が破り、漢宏本人にも大勝、何肅・辛約を殺した。漢宏は変装して逃れたが台州で捕らえられ会稽で斬られ族滅された。鏐は昌を漢宏の後任として推し自らは杭州に留まった。光啓三年(887年)、鏐は左衛大将軍・杭州刺史、昌は越州観察使を拝命。この年、畢師鐸が高駢を幽閉し淮南は大乱、六合鎮将徐約が蘇州を、潤州牙将劉浩が帥周宝を追放(宝は常州に奔り病没)、鏐は成及・杜稜らに常州で宝を保護させ潤州の劉浩・薛朗を撃破し、朗の心臓を抉って宝を祭った。その後銶(鏐の弟)に約を破らせ海に追討させた。
- 昭宗は鏐を杭州防禦使に任じた。この頃楊行密・孫儒が淮南を争い、儒は行密に敗死し行密が淮南・潤州を得る一方、鏐は蘇・常を得た。唐は越州を威勝軍とし昌を節度使・隴西郡王に、杭州を武威軍とし鏐を都団練使とした。成及(字弘済)は鏐の謀臣として重用され、鏐は娘を及の子仁琇に嫁がせた。杜稜・阮結・顧全武らを将校、沈崧・皮光業・林鼎・羅隠を賓客とした。景福二年(893年)鎮海軍節度使・潤州刺史、乾寧元年(894年)同中書門下平章事を加えられた。
董昌の乱平定と呉越国の基礎
- 乾寧二年(895年)越州の董昌が反乱、昌は愚かで訴訟をサイコロで裁くほどだったが、妖人応智・王温・巫韓媪らが瑞祥を捏造し、牙将倪徳儒が「羅平鳥」の讖言を持ち出したため、昌は自ら皇帝を称し国号を「羅平」、順天と改元した。副使黄鎧が諫死させられると、昌は書状で鏐に反乱を告げた。鏐は董氏に恩義があるとして討伐を渋ったが、朝廷は昌の官爵を削り鏐を浙江東道招討使に任命。鏐は兵三万を迎恩門に屯し客の沈滂で昌に翻意を促した。昌は一旦犒軍銭二百万を出し応智らを捕らえて謝罪したが、再び拒命し将陳郁・崔温を屯させ楊行密に援軍を求め、行密は安仁義を派遣した。鏐は顧全武に昌を攻めさせ崔温を斬った。昌の将徐珣・湯臼・袁邠らは凡庸で敗れたが、昌の甥の真は勇敢で全武軍を長く阻んだ。真が裨将刺羽との軋轢から讒言を受け昌に殺されると昌軍は敗れ、全武は昌を捕らえて杭州へ護送する途中、昌は西小江で「我と錢公は同郷から起こった、かつては大将だった身がなぜこんな姿で会わねばならぬのか」と嘆き左右と泣き合い、瞋目大呼して投水自殺した。
- 昭宗は宰相王溥を越州鎮とし、溥の請いで鏐は威勝軍を鎮東軍に改め鎮海鎮東軍節度使・検校太尉中書令となり鉄劵(九死を赦す特権)を賜った。鏐は越州を東府と称し、光化元年(898年)鎮海軍を杭州に移し検校太師を加えられ、郷里を広義郷勲貴里、居所を衣錦営と改めた。婺州刺史王壇が淮南に叛くと将康儒が壇を援け睦州を攻めたが鏐弟の銶が軒渚で破り壇は宣州へ逃亡。昭宗は鏐の像を凌煙閣に描かせ、衣錦営を衣錦城に、石鑑山を衣錦山、大官山を功臣山と改めさせた。鏐は故老を招いて衣錦城で宴し山林を錦で覆い、幼時に遊んだ大木を「衣錦将軍」と号した。天復二年(902年)鏐は越王に封じられた。
- 鏐が衣錦城を巡幸中、武勇右都指揮使徐綰と左都指揮使許再思が叛乱、城郭を焼き内城を攻めた。鏐の子伝瑛らが城門を守り抜き、鏐は微服で潜入。顧全武は「東府より淮南の脅威が問題だ、綰は必ず淮兵を呼ぶ、楊公(行密)は大丈夫、難を告げれば必ず我らを憐れむだろう」として使者を提案し、鏐の子元璙を伴い広陵に赴かせた。果たして綰は田頵(宣州)に援軍を求めたが、全武らの交渉で行密は娘を元璙に嫁がせ頵を召し返させた。頵は鏐の元瓘(鏐の子)を人質に取り銭百万を得て撤退した。天祐元年(904年)鏐は呉王に封じられ、功臣堂を建て碑陰に賓佐将校五百人の名を刻んだ。天祐四年、衣錦城を安国衣錦軍に昇格。
- 梁太祖即位後、鏐は呉越王・淮南節度使を兼任。梁への服属を渋る客に鏐は「孫仲謀(孫権)であってなぜ悪い」と笑って受けた。太祖は呉越の進奏吏に鏐の好みを問い「玉帯と名馬を好む」と聞くと玉帯と御馬十匹を贈った。江西の危全諷が楊渥に敗れた際、信州の危仔倡が鏐の元に奔り、鏐はその姓を嫌って「元」に改めさせた。開平二年(908年)守中書令を加えられ臨安県を安国県、広義郷を衣錦郷と改称。三年、守太保を加えられた。楊渥の将周本・陳璋が蘇州を囲むと鏐の弟の鋸・鏢が救援、淮兵は網と鈴で仕掛けた水柵で防いだが水軍卒司馬福が竹竿で鈴を鳴らし網を挙げさせる隙に城中へ潜入・脱出を繰り返し、内外呼応で淮兵を大破、本らを敗走させ将閭丘直・何明らを捕らえた。開平四年、衣錦軍巡幸で「還郷歌」を作った――「三節還鄉兮掛錦衣、父老逺来相追随、牛斗無孛人無欺、吳越一王駟馬帰」。
- 乾化元年(911年)守尚書令兼淮南宣潤等道四面行営都統を加えられ衣錦軍に生祠が立てられた。鏐弟の鏢は湖州で戍将潘長を擅殺し罪を恐れ淮南に奔った。乾化二年、梁の郢王友珪が即位すると鏐を尚父に冊尊。末帝貞明三年(917年)天下兵馬都元帥を加えられ開府置官属した。四年、楊隆演が虔州を取ったため鏐は初めて海路で京師に入貢。龍徳元年(921年)詔書不名の礼を賜った。唐荘宗の入洛後、鏐は玉冊を求める使者を送り、荘宗は有司に議させ「天子でなければ玉冊は使えない」との反対もあったが郭崇韜の進言で許され、玉冊金印を賜り鏐は鎮海等軍節度を子元瓘に授け自ら「呉越国王」を称し、居所を宮殿、府を朝官と称し官属は皆臣を称した。玉冊金印詔書は衣錦軍に三度楼閣を建てて奉安され、新羅・渤海王を含む海中諸国も皆その君長を承認した。
- 明宗の即位初、安重誨の専権に鏐は不遜な書を送り重誨は激怒。供奉官烏昭遇・韓玫が呉越から帰った際、玫が「昭遇が鏐に臣を称し舞蹈した」と誣告し、重誨は鏐の王爵・元帥を削り太師致仕とさせたが、元瓘らが絹表を密使に持たせ訴え、重誨の死後明宗は鏐の官爵を回復した。長興三年(932年)鏐は八十一歳で卒し武粛と諡された。子の元瓘が立った。