新五代史卷六十六 楚世家第六
馬殷(字は霸図、852–930年)は許州鄢陵の人。孫儒の裨将から身を起こし、劉建峰の死後に推されて潭州に入りその位を継いだ。湖南を平定して後梁より楚王に封じられ、天册府を開いて貢献重視の政策により国を富強にした楚国の建国者。
馬殷――湖南制覇
- 馬殷、字霸図、許州鄢陵の人。唐中和三年(883年)、蔡州の秦宗権が孫儒・劉建峰に兵一万を与え弟宗衡に属させ淮南を略させた。殷は初め孫儒の裨将で、宗衡らは楊行密を揚州に攻めたが克てず、梁兵が急に宗権を攻め宗権が儒らを再三召還を促すと、儒は怒って宗衡を殺し自ら軍を率いて高郵を取り行密を逐い、宣州に拠った行密を攻囲した。攻略できず殷と建峰を派して周辺県を掠めさせたが、儒は戦死し殷らは帰る所を失い、建峰を帥に推し殷は先鋒となって豫章を転攻し虔・吉を略した。乾寧元年(894年)湖南に入り澧陵に次ぐと、潭州刺史鄧処訥は邵州兵を龍回関に戍らせたが、建峰らは戍将蒋勛を降し先鋒兵の鎧甲・旗幟を奪って潭州東門を欺き入城、処訥を殺した。建峰は自ら留後を称し僖宗は湖南節度使に任じ、殷は馬歩軍都指揮使となった。
- 蒋勛が邵州刺史を求め拒まれ湘郷を攻めると、建峰は殷を遣わし邵州で勛を撃った。建峰は凡庸で部下を統率できず、部曲陳贍の妻に艶色を見出し私通したため、怒った贍が鉄檛で建峰を撃殺。軍中は行軍司馬張佶を推したが、佶が入府しようとした馬に踏まれ股を傷つけられ、佶は病臥して「馬公こそ英勇、ともに立つべし」と語り、諸将は贍を殺しその屍を磔にし、姚彦章を遣わして邵州の殷を迎えた。乾寧三年(896年)、佶は肩輿で入府し殷に位を譲った。唐は殷を潭州刺史に任じ、殷は秦彦暉・李瓊らに連・邵・郴・衡・道・永六州を平定させた。桂管の劉士政が全義嶺に将陳可璠・王建武を守らせ殷の使者を拒むと、殷は瓊に兵七千で攻めさせ可璠らと兵二千余を悉く生き埋めにし、桂管を包囲して士政を虜にし属州を全て併合、瓊を桂管観察使とした。乾寧四年(897年)、殷は武安軍節度使に任じられた。
- 殷の弟賨は孫儒敗死の際に楊行密に捕らえられ黒雲都指揮使として仕え、質実な人柄を行密に愛された。「馬殷の弟」と知った行密は帰還を勧めたが賨は「孫儒の敗卒を殺さず用いてくれた恩に報いたい、また湖南の情勢を伝えられる」と辞退。行密は感嘆し両国の和好・通商を託して賨を厚礼で殷の元へ帰し、殷は喜んで賨を節度副使とした。行密の将劉存らが杜洪を鄂州に囲んだ際、殷は秦彦暉・許徳勲に救援させたが洪は敗死、存らは殷を攻め、彦暉は上流で防ぎ偏将黄璠が瀏陽口に舟三百を伏せた。存らは和議を求めたが彦暉は「淮人は詐術に長ける、油断を誘っている」と説き急撃、存を退けて黄璠が挟撃し劉存・陳知新が戦死、彦暉は岳州を取った。梁太祖即位後、殷は貢を修め侍中兼中書令・楚王に封じられた。荊南の高季昌が漢口を断ち殷の貢使を邀うと、許徳勲に沙頭を攻めさせ季昌は講和を求め止んだ。
楚国の建設
- 楊行密の袁州刺史呂師周が来奔した。師周は緯候・兵書に通じた勇将で、五世将家の因縁に脅えて憂鬱に沈み行密に疑われ、部将綦毋章に「馬公は仁者、楚に逃れたい」と相談、章の助けで境上の狩猟に事寄せて楚に奔った。殷は「南方の嶺表経略にはこの人物で十分」と喜び馬歩軍都指揮使として嶺南攻略を委ね、昭・賀・梧・蒙・龔・富等の州を取り昭州刺史とした。朗州の雷彦恭が呉の援けで平江を攻めたが許徳勲が撃退、殷は秦彦暉に朗州を攻めさせ彦恭は呉に奔りその弟彦雄ら七人が梁に送られた。澧州の向瓌・辰州の宋鄴・漵州の昌師益ら溪洞の諸蛮も殷に帰属し、朗州は永順軍に昇格し張佶が節度使となった。殷は唐太宗の故事に倣い天册府を開いて官属を置くことを願い、太祖は殷に天册上将軍を授けた。弟の賨を左相、劉存を右相、廖光図ら十八人を学士とした。末帝の時、殷は武安・武昌・静江・寧遠等軍節度使、洪鄂四面行営都統に加任された。
- 唐荘宗が梁を滅ぼすと殷は子希範に貢を修めさせ、梁の授けた都統印を返上した。荘宗が洞庭の広さを問うと希範は「車駕が南巡すれば馬に水を飲ませる程度」と答え、荘宗に称賛された。荘宗が蜀を平定すると殷は大いに恐れ致仕を表請、荘宗は璽書で慰労した。明宗即位後の貢に際し荊南の高季昌が貢使史光憲を捕らえると、殷は袁詮・王環らに城下まで攻めさせ季昌は講和を求め止んだ。殷は当初兵力乏しく楊行密・成汭・劉龑と敵対しこれを憂い、将高郁に策を問うと、郁は「成汭は狭小、劉龑は五管に留まる、楊行密は孫儒の仇で交わりがたいが、朝廷を奉じ封爵を求めつつ隣国に誇示するのが覇者の道、その後兵農を修め力を蓄えるべし」と説いた。以後、殷は京師への貢を茶茗にとどめ、京師から襄・唐・郢・復等州に邸務を置いて茶を売り十倍の利を得た。郁はまた鉛鉄銭の鋳造(十当銅銭一)や民間製茶の課税による通商奨励を進言し歳入は万計に達し、国は富強になった。天成二年(927年)行台建立を請い、明宗は楚国王に封じ(公・国王の礼が無いため三公用の竹册で代用)、尚書右丞李序を遣わし持節冊封させた。殷は潭州を長沙府とし建国承制して官属を自置、弟賨を静江軍節度使、子希振を武順軍節度使、次子希声に内外諸軍事を判じさせ、姚彦章・許徳勲を左右相、李鐸を司徒、崔頴を司空、拓抜常を僕射、馬珙を尚書とした。曾祖筠を文粛、祖正を荘穆、父元豊を景荘と諡し長沙に三廟を立てた。長興元年(930年)殷は七十九歳で卒し、詔で武穆と諡された。子の希声が立った。
希声・希範
- 希声、字若訥、殷の次子。殷建国時に内外諸軍事を判じた。荊南の高季昌は殷の将高郁が殷に献策する存在を恐れ、間諜を使い希声に「季昌は楚が高郁を用いることを喜び、馬氏を滅ぼすのは郁だと考えている」と吹き込んだ。愚直な希声はこれを信じ郁の兵権を奪い、郁は怒って「私は久しく君王に仕えたが、もう西山に隠退しよう、犬の子も大きくなれば人を噛むものだ」と語った。希声はこれを聞き殷の命と偽って郁を殺した。老いた殷は事情を知らないまま、その日大霧が四方を覆ったことを不吉とし「孫儒に仕えた頃、儒が無実の者を殺すたび大霧が立った、馬歩の獄に冤死があるのでは」と語った。翌日、郁の死を知らされた殷は胸を打って号泣し「私が耄碌して功臣を殺してしまった」と嘆き、まもなく薨じた。希声は立って武安・静江等軍節度使を授かった。希声は梁太祖が鶏料理を好んだと聞き、殷の葬儀の潢に赴かず鶏肉数器を平らげてから哭泣したため礼部侍郎潘起に「阮籍が喪中に蒸豚を食べた故事を思わせる」と皮肉られた。長興三年(932年)希声は卒し、衡陽王を追封され弟の希範が立った。
- 希範、字宝規、殷の第四子。殷には十余人の子がおり、嫡子希振は年長で賢明だったが、希声と同日に生まれた同母弟の存在(希声の母が寵愛されていたため希声が立った)により希振は官を棄て道士となり家に隠棲していた。希声の死後、次の順序で希範が立ち楚王を襲封。清泰二年(935年)弓矢冠剣を賜り、天福四年(939年)天册上将軍を加えられ開府承制すること殷の故事の通りとした。希範は学を好み詩文に優れ、廖光図・徐仲雅・李皋・拓抜常ら十八人の学士(殷代からの者)を重用したが、性は奢侈で光図らも軽薄な徒として遊興に耽り、独り常は沈厚な長者として上書切諫し光図らに疎まれた。
- 襄州の安従進、安州の李金全が晋高祖に叛くと、希範は張少敵に舟兵で漢陽に趨かせ米五万斛を運ばせ、金全らが敗れると撤兵。溪州刺史彭士然が錦・奨等蛮を率いて澧州を攻めると、劉勍・劉全明らが歩卒五千で撃破、士然は奨州へ敗走しその子師暠が諸蛮酋を率い勍に降った。溪州は西の牂牁・両林、南の桂林象郡に接し、希範は銅柱を立て学士李皋にその功を銘記させた。南寧州酋長莫彦殊が十八州部を、都雲酋長尹懐昌が昆明等十二部を、牂牁の張万濬が夷播等七州を率いて希範に帰属した。希範は会春園・嘉宴堂を造営し費用は巨万に達し国中に増税を課し、拓抜常が諫めたが聞かれなかった。九龍殿を作り八龍に柱を巡らせ「自分も一龍である」と称した。この頃契丹が晋を滅ぼし中国は大乱、牙将丁思覲は「先王(殷)は卒伍から起こって国を築いた、天子が囚辱される今こそ荊襄から京師に出て義兵を挙げ桓文の業を成すべき時、なぜ土木事業に耽るのか」と直諫、希範が謝ったが思覲は「もう教え諭せぬ」と絶食して喉を扼して死んだ。開運四年(947年)希範は四十九歳で卒し文昭と諡され、弟希広が立った。
希広・希萼・希崇の内紛
- 希広、字徳丕、希範の同母弟。希範は生前拓抜常の諫めを疎んじていたが病臥時にその忠実さを思い出し希広を後見させた。希範没後、常はしばしば希広に兄希萼へ位を譲るよう勧めたが希広は従わなかった。希萼は朗州節度使であったが希範の死に朗州から奔喪に来た際、将劉彦瑫は「武陵からの来訪は不穏だ、兵を出して迎え、武装解除させてから入城させるべし」と進言、張少敵・周廷誨は「王(希広)が位を継がせられないなら早く除くべき」と説いたが、希広は「兄を殺せない、国を分けて治めればよい」と泣いて言い、砆石で希萼を迎え碧湘宮に留め厚く賂して帰した。希萼は憤然と去り、京師に封爵と置邸称藩を求めたが、漢隠帝は許さず慰諭のみで応じた。希萼は怒って南唐の李景に款を通じ長沙を攻めた。
- 希広は劉彦瑫・許可瓊らに防がせ、彦瑫は僕射洲で希萼を破ったが、希萼は溪洞諸蛮を誘い益陽を侵し、希広は崔洪漣に歩卒七千で湘郷・玉潭を守らせ、彦瑫に武陵を攻めさせたが湄洲で敗れた。希広は京師に援軍を求めたが漢隠帝は出師できず、希萼は舟兵で「順天将軍」を号し長江を遡り、岳州刺史王贇の堅守に「君王兄弟の争いに将吏の異心が及ぶのか」と問われ、贇は「君王が長沙に入っても同気を傷つけなければ臣は節を尽くす」と答えた。希萼は長沙水西に、劉彦瑫・許可瓊は水東に屯した。彭師暠は水西軍の脆弱さを見抜き夜襲を進言、希広はこれを可としたが、可瓊は既に希萼に密かに款を通じており議を潰した。翌日、師暠が可瓊を面詰し「反相が顔に出ている」と叱ったが希広は聞かず。希萼が長楽門を攻めると牙将呉宏・楊滌が防いだが、許可瓊が希萼に投じたことで二将も潰走。希広は妻子と慈堂に匿れたが翌日捕らえられ、希萼は「これほどの鈍夫が悪事などできるものか、左右が惑わせたのだ」と憐れみつつも、部下の意向で縊殺した。
- 乾祐三年(950年)希萼は自立、翌年漢隠帝が崩じ京師が乱れると希萼は李景に臣従し景は希萼を楚王に冊封。希萼は軍政を弟の希崇に委ねたが、希崇は楚の旧将徐威・陸孟俊・魯綰らと謀り、端陽門の宴で病と称して欠席、威らが暴れ馬十余頭を放って希萼を捕らえ希崇を擁立した。師暠・廖偃は希萼を衡山に幽閉し衡山王として李景に臣従、希崇も景に臣従を請い、景は邊鎬を遣わして馬氏一族を金陵に遷した(周広順元年、951年)。景は希萼を楚王として洪州に、希崇を舒州節度使として揚州に置いた。顕徳三年(956年)世宗の淮南征討で揚州が周に下った際、馬氏子孫の安撫が詔されたが揚州は再び南唐に帰し、希崇は兄弟十七人を率いて京師(宋)に帰り右羽林統軍に任じられ、希能は左屯衛大将軍、希貫は右千牛衛大将軍、希隠・希濬・希知・希朗は皆節度行軍司馬に任じられた。
劉言・王進逵・周行逢
- 劉言は吉州廬陵の人、王進逵は武陵の人。言は初め刺史彭玕に仕え玕に従い楚に奔った。言は希範の辰州刺史時代に仕え、進逵は静江軍卒として希萼の指揮使となった。希萼が希広を攻めた際、進逵は先鋒として長沙を陥した。長沙が戦乱で荒廃すると希萼は進逵に静江兵で復興させたが兵は不満を募らせ、進逵は夜に長柯巨斧で関を斫り武陵へ逃亡。希萼は追撃の将唐翥を送るも大敗、進逵は留後馬光恵を逐い辰州の言を帥に迎え自ら副となった。まもなく徐威らが希萼を縛って希崇を立てると湖南は大乱、李景は邊鎬を遣わし馬氏を金陵に遷し言も召したが、言は従わず進逵・何景真らに邊鎬を長沙で攻めさせ敗走させた。周広順三年(953年)言は京師(周)に上表し封爵を求め、長沙の荒廃を理由に治所を武陵に移すことを願い許され、朗州を武平軍(武安軍の上位)に昇格し言を節度使、進逵に武安軍を授けた。
- 進逵は自ら言を擁立した功を誇り言に従わず、両者に軋轢が生じた。進逵は「言の腹心は何景真・朱全琇のみ、これを殺せば言を制せる」と謀り、劉晟が楚の梧・桂・宜・蒙等州を取った隙に「景真らを召し兵を集めて晟を討とう」と言を欺き、景真・全琇を招いて殺害、武陵を襲い言を殺した。周太祖はそのまま進逵を武平軍節度使とした。世宗の淮南征討時、進逵は南面行営都統を授かり鄂州を攻めた際、岳州刺史潘叔嗣(進逵の旧同僚)は恭謹に仕えていたが、進逵の左右が賄賂を求め拒まれると讒言し進逵が叔嗣を面罵、叔嗣は恨み「進逵が戦勝して帰れば我らは皆殺しだ」と部下に語った。進逵が鄂州に入り長山を攻略中、叔嗣は武陵を襲撃、進逵は急ぎ帰還したが武陵城外で敗死した。
- 周行逢は武陵の人、進逵とともに静江軍卒として希萼に仕え軍校となった。進逵の邊鎬攻撃の際、行逢は別に益陽を破り李景兵二千余を殺し将李建期を捕らえた。進逵が武安軍節度使となると行逢は集州刺史・行軍司馬とされ、進逵と劉言の不和に際し行逢は策を献じて言を襲殺させ、進逵は武陵、行逢は潭州に拠った。顕徳元年(954年)行逢は武清軍節度使・権知潭州軍府事に任じられた。潘叔嗣が進逵を殺した後、武陵入りを勧める者に叔嗣は「進逵を殺したのは自衛のためで武陵の利のためではない」と答え岳州に還り、客将李簡に武陵の民を率いさせ行逢を潭州に迎えた。行逢が武陵に入ると、潭州を叔嗣に与えるべきとの声もあったが、行逢は「叔嗣は主帥殺害の罪人だが我を迎えた恩がある、武安を与えれば我が王公殺害を使嗾したことになる」と行軍司馬に召したが、叔嗣は疑い病と称して出頭せず、行逢は「これは我をも殺す気だ」と怒り、逆に武安を偽り与えると称して召し出頭させ殺した。
- 行逢は元は武陵の貧しい農家の子で若い頃は無頼だったが、武陵入城後は倹約と勉励で自らを律し、勇敢で果断に人を殺す性質もあった。麾下の驕慢な将吏は法で厳しく処し、大将十余人の謀反企図を宴席で壮士に捕らえさせ斬った。一境は畏服したが、民の過失は大小問わず死罪とされたため、夫人厳氏(または鄧氏)が「情には善悪があるのに一律に殺すのか」と諫めたが、行逢は「これは外事、婦人の関知するところではない」と応じた。厳氏は納得せず、家の佃戸が行逢の権勢を恃んで民を侵しているとして自ら村に赴き、青裙姿で租税を運ぶ農婦として暮らした。行逢が訪れ労うと厳氏は「あなたが戸長だった頃、租税が遅れると鞭打たれ苦しんだ、今は貴くなったのだから率先垂範すべき、田畝を忘れてはならない」と諭した。行逢は強いて連れ帰ろうとしたが厳氏は留まる意志がなく、「法が厳しすぎて人心を失っている、禍が起きればここへ逃れやすい」と語ったため、行逢は以後やや法を緩めた。
- 建隆三年(962年)行逢は病篤く、将吏を集め子の保権を託し「私は隴畝から起こり団兵時代の同志十人は皆誅死した、ただ衡州刺史張文表のみ健在だが常に不満げだ、私の死後必ず叛くだろう、楊師璠に討たせよ、それも叶わなければ籠城して抵抗せず朝廷に帰順せよ」と遺言し卒した。子の保権が立つと文表は「行逢と我は微賎から共に起こり功名を立てた、なぜ今さら小児に仕えるのか」と怒って挙兵し潭州を陥した。保権は朝廷に援軍を乞い、楊師璠に討伐を命じ、行逢の遺言を涙とともに師璠に伝えると、師璠も感激し軍に「主君はまだ成人前だがこれほど賢い、諸君も奮起せよ」と呼びかけた。師璠軍は平津亭で文表を大破。保権の求めに応じ太祖皇帝は慕容延釗を討伐に遣わしたが、到着前に文表は師璠に捕らえられた。延釗の兵が朗州に入ると保権は一族を挙げて京師に朝し、その後の事跡は国史に見える(殷が唐乾寧二年に湖南に入って以来、周広順元年に至るまで五十七年、詳細は年譜の注に記す)。