嶺南制覇と建国
- 龑は初め巌といい、隠の庶弟。母段氏が外舎で龑を生んだ際、謙の正妻韋氏は嫉妬して殺そうとしたが、見て思いとどまり、後に段氏を殺して龑を自分の子として育てた。長じて騎射に優れ、隠の行軍司馬時代に薛王府諮議参軍を兼ね、隠の南海鎮守時には副使となった。隠の死後代わって立ち、乾化二年(912年)清海軍節度使検校太保同平章事、三年検校太傅、末帝即位で隠の官爵を全て継承し南海王に封じられた。
- 唐末の嶺南は混乱を極め、交州の曲顥・桂州の劉士政・邕州の葉広略・容州の龎巨昭が各管を分拠し、盧光稠が虔州から嶺上を攻め、弟光睦は潮州、子延昌は韶州、高州刺史劉昌魯、新州刺史劉潜、江東七十余寨など統制不能であった。隠が韶州を攻めようとした際、龑は「光稠が背後から挟撃してくる」と諫めたが隠は聞かず敗れて帰り、以後兵事を悉く龑に委ねた。龑は諸寨を平らげ昌魯らを殺して刺史を置き換え、盧氏を破って潮・韶を取り、馬殷と容・桂を争い(殷は桂管を取り士政を虜にし、龑は容管を取り巨昭を逐い邕管も併せた)。
- 隠・龑は梁初に受封し正朔を奉じるのみであったが、貞明三年(917年)龑は皇帝に即位し国号を大越、乾亨と改元。安仁を文皇帝、謙を聖武皇帝、隠を襄皇帝と追尊し三廟を立て、楊洞潜を兵部侍郎、李衡を礼部侍郎、倪曙を工部侍郎、趙光胤を兵部尚書とし皆平章事とした。光胤は唐の名族出身であることを恥じ帰郷を思っていたが、龑は光胤の筆跡を真似た偽の書状を作り洛陽の二子損・益と家族を招き寄せ、光胤は驚き喜んで以後尽力した。龑は聡明だが酷刑を好み、人を刀鋸で支解する刑をしばしば見物し喜悦した。また奢侈を好み南海の珍宝で玉堂珠殿を造営した。
- 乾亨二年(918年)南郊祭天・大赦、国号を漢と改めた(乾亨から漢へ)。当初僭号を憚っていたのは王定保への遠慮からだったが、定保は龑の建国後「清海軍額がまだ残っているのは笑われるだろう」と評した。乾亨三年(919年)夫人馬氏(楚王馬殷の女)を皇后に冊立。四年、選部貢挙を置き進士・明経十余人を選ぶことを恒例とした。
- 唐荘宗の入汴(923年)に際し龑は宮苑使何詞を派遣して情勢を探らせ、詞は「唐は必ず乱れる」と報告し龑は喜んだ。龑は誇大を好み、嶺北商賈を宮殿に招いて珠玉の富を誇示し、「我が家は本来咸秦の出、蛮夷の王を恥じる」として唐天子を「洛州刺史」と呼んだ。この年、雲南驃信鄭旻が朱鬃白馬を献じて求婚し、龑は隠の娘増城県主を旻に嫁がせた。乾亨八年(924年)南宮を造営、王定保が「南宮七奇賦」を献じてこれを称えた。龑は名を巌から陟、さらに白龍出現を機に龑(音は儼、周易「飛龍在天」の義による)、後に龔と改名した(「劉氏を滅ぼす者は龑なり」との讖言があったため)。
- 大有四年(931年)楚が舟師で封州を攻め、龑軍は賀江で敗れたため周易で占い「大有」の卦を得て大有と改元、将蘇章に神弩軍三千で救援させた。章は賀江に鉄索を沈めて巨輪の仕掛けを築き楚舟を鎖で捕らえて弩で射殺し大勝した。大有三年、李守鄘・梁克貞が交趾を攻め曲承美(顥の子)を虜とし、龑は「常に我を偽廷と呼んだが今どうか」と問い、承美が謝罪すると赦した。克貞は占城も攻め財宝を掠奪して帰った。大有四年、愛州の楊廷芸が交州刺史李進を攻め逐うと、龑は承旨程宝を遣わしたが戦死。大有五年、子の耀枢を邕王とするなど十九人の子を各地の王に封じた。大有九年孫徳成に蒙州を攻めさせたが克てず、十年交州牙将皎公羨が楊廷芸を殺して自立、廷芸の旧将呉権がこれを攻めると公羨は龑に援軍を求め、龑は洪操(子)を交王とし白藤に出兵させたが、権は海口に鉄橛を植えて満潮に乗じて反撃、洪操は戦死した。大有十五年(942年)龑は五十四歳で卒し天皇大帝と諡され廟号高祖、陵は康陵。子の玢が立った。