新五代史卷六十二 南唐世家第二 李昪
李昪(字は正倫、888?–943年)は徐州の人で、微賤の出。父の栄は唐末の乱で行方知れずとなり、孤児として流浪した。楊行密に拾われ徐温の養子となり徐知誥と名乗って呉の実権を握り、のち李氏に復姓して国号を唐(南唐)と改め自ら皇帝を称した。南唐の建国者で、廟号は烈祖。
徐氏の養子から呉の実権掌握へ
- 李昪は字を正倫といい、徐州の人である。もとは微賤の出で、父の栄は唐末の乱に遭ってその行方は知られていない。昪は幼くして孤児となり濠州・泗州の間を流浪した。楊行密が濠州を攻めた際にこれを得て、その容貌を奇として養子としたが、楊氏の諸子が受け容れなかったため、行密は徐温にこれを与えた。こうして徐姓を冒し名を知誥とした。壮年に至ると身長七尺、額広く鼻筋通り、人となりは温厚で謀があった。呉の楼船軍使として舟兵を率いて金陵に屯した。柴再用が宣州を攻めるにあたりその兵を用いて李遇を殺した。昪はその功によって昇州刺史に拝された。当時、江淮の地は平定されたばかりで州県の吏の多くは武人で賦斂と戦守にのみ努めたが、昪だけは学を好み儒者を礼をもって迎え、自らを律して勤倹をつとめ、寛仁をもって政を為したので、民はようやくこれを誉めるようになった。
- 徐温が潤州に鎮するにあたり昇州など六州を属とした。温は昪が昇州を治めて善政があったと聞き、視察に赴くとその府庫は充実し城壁は整備されていた。そこで治所をここに移し、代わって昪を潤州刺史に遷した。昪は初め赴くことを望まず宣州を求めたが温は許さなかった。その後、徐知訓が朱瑾に殺されたとき、温は金陵にあってまだこれを聞いておらず、昪は潤州にいて広陵に近かったため先に聞き、即日その州兵をもって江を渡り乱を鎮め、ついに政を得た。昪は徐温に仕えることまことに孝謹であり、温はかつてその諸子を叱って「昪に及ばない」と言った。諸子はこれをおおいに面白く思わず、中でも知訓が最もひどかった。かつて昪を招いて酒を飲ませ、剣士を伏せて害そうとしたが、行酒吏の刁彦能がこれに気づき、酒が至ると昪の手の爪を搯いて(合図をして)知らせ、昪は悟って走り出て難を免れた。後に昪が潤州から入朝した際、知訓は山光寺で酒を共にしまた害そうとしたが、徐知諫がその謀を昪に告げ、昪は席を立って逃げ出した。知訓は剣を刁彦能に授け追って殺させようとしたが、途中で追いついたものの追いつけなかったと偽って戻った。これにより昪は難を免れ、後に昪が貴顕となると刁彦能を撫州節度使とした。
- 知訓が用事するにあたり楊氏を凌辱し諸将を驕り侮ったため、ついに殺されることとなった。昪が秉政するにあたり人心を収めようと刑法を寛くし恩信を推し広め、延賓亭を起こして四方の士を待遇し、宋斉丘・駱知祥・王令謀らを引き入れて謀客とし、呉に寄寓する士人はみな用いた。かつて密かに人を遣わし民間の婚喪で困窮する者を見て回らせ、しばしば賙給した。盛夏でも決して傘を張り扇を使わず、左右が傘を進めても必ずこれを退けて「士衆はなお多くが炎天に暴露している、私だけが何のためにこれを用いようか」と言った。こうして温は遠く大政を執っていたが、呉人はすでにおおむね昪に心を寄せていた。
- 武義元年、左僕射・参知政事に拝され温の行軍司馬となった。徐玠はしばしば温に自分の子を昪に代えるよう勧め、温は子の知詢を広陵に入らせ昪に代わって秉政させようと謀ったが、折しも温が病に倒れると知詢は金陵に奔り帰った。徐玠は却って昪のために謀り、知詢に反状ありと誣告してその客将周廷望を斬らせ、知詢を右統軍とした。楊溥が僭号すると昪を太尉・中書令に拝した。太和三年、昪は金陵に出鎮して温の制度に倣い、その子景通を留めて司徒・同平章事とし、王令謀・宋斉丘を左右僕射・同平章事とした。四年、昪を東海郡王に封じた。昪は鏡に映る白髪を見て、その吏周宗を顧みて嘆じ「功業はすでに成ったが私は老いた、どうしようか」と言った。周宗はその意を悟り広陵に馳せて宋斉丘に見え、禅代を謀ったが、宋斉丘はまだ時期尚早として周宗を斬って呉人に謝すべきと請うた。昪は周宗を池州刺史に貶した。
- 呉の臨江王濛は徐氏が自分を差し置いて溥を立てたことを常に不平としていたが、昪がまさに簒国を謀ろうとするに及び、まず濛を廃して歴陽公とし、吏に兵をもって守らせた。濛は守者を殺して廬州に奔り、節度使の周本を頼ろうとした。周本は呉の旧将で、濛が来たと聞くとこれを迎え入れようとしたが、その子の祚に止められた。周本は「これは私の旧主君ではないか、どうして忍んで拒めようか」と言い、急ぎ自ら出迎えたが、祚は門を閉じ周本を遮って出さず、濛を縛って金陵に送り殺された。五年、昪は斉王に封じられ、やがて閩・越の諸国も皆使者を遣わして進位を勧め、昪は人望がすでに帰したと見た。天祚三年、斉国を建て宗廟社稷を置き、宋斉丘・徐玠を左右丞相とした。十月、溥は摂太尉楊璘を遣わして帝位を昪に伝え、国号を斉、昇元と改元した。昪は冊をもって溥を「高尚思玄弘古譲皇帝」と尊び、「受禅老臣知誥謹んで上る」とした。徐温を忠武皇帝に追尊し、子の景を呉王に、徐氏の子知証を江王、知諤を饒王に封じた。周本は諸将と共に金陵に至って勧進したが、帰って「私は簒国者を誅して楊氏に報いることができなかった。今や老いてしまった、どうして二姓に仕えられようか」と嘆き、憤惋して死んだ。
- 二年四月、楊溥を潤州の丹陽宮に遷し、王輿を浙西節度使、馬思譲を丹陽宮使として厳しく守らせた。徐氏の諸子は昪に姓を復すよう請うたが、昪は謙って徐氏の恩を忘れられないとしてこの議を百官に下した。百官が皆請うたので、ついに李氏に復姓し名を昪と改めた。昪は自ら唐の憲宗の子建王恪の後裔であると称し、恪が超を生み、超が徐州判司の志を生み、志が栄を生んだとし、自ら建王の四世孫と称して国号を唐と改めた。唐の高祖・太宗の廟を立て、四代の祖である恪を孝静皇帝(廟号定宗)、曾祖の超を孝平皇帝(廟号成宗)、祖の志を孝安皇帝(廟号恵宗)、考(父)の栄を孝徳皇帝(廟号慶宗)に追尊し、徐温を義祖として奉じた。徐氏の子孫は皆王公に封じ、女は郡県主に封じた。門下侍郎張居詠・中書侍郎李建勲・右僕射張延翰を同平章事とした。十一月、歩騎八万をもって銅橋で講武した。楊溥は丹陽宮で卒し、溥の子璉は呉太子であったが、昪はかつてその娘を璉の妻としており、昪が簒国するとその娘を永興公主に封じた。娘は「公主」と呼ばれるたびに悲しんで涙を流したため、宮中の人々は皆これを憐れんだ。溥が卒すると璉を康化軍節度使としたが、やがて病で卒した。
- 三年四月、昪は圜丘で昊天上帝を郊祀し、儀式が終わると群臣は尊号を奉ろうとしたが、昪は「尊号は古の礼ではない」として許さなかった。州県が孝悌五代同居の民七家を上言すると、皆その門閭を表彰し賦役を免じた。中でも盛んだったのは江州の陳氏で、宗族七百口が毎食広い席を設け長幼の順に並んで共に食し、飼っている犬百余匹も一つの飼葉桶で共に食べ、一匹の犬が来ないと他の犬もみな食べなかった。四年六月、後晋の安州節度使李金全が叛いて昪に款を送ってきた。昪は鄂州屯営使李承裕を遣わし迎えさせたが、李承裕は後晋の将馬全節・安審暉と戦い安陸の南で三戦して皆敗れ、李承裕とその裨将段処恭は共に死に、都監杜光鄴とその兵五百人は捕らえられ京師に送られた。後晋の高祖はこれを厚く賜って送り返し、昪は高祖に書を送り光鄴らを再び送って敗軍の法をもって処罰するよう請うたが、高祖はまた送り返した。昪は甲士を淮に臨ませて拒み、ようやく止んだ。
- 六年、呉越国で火災があり宮室・府庫・甲兵が尽く焼失し、群臣はその弊に乗じて攻めるよう請うたが、昪は許さず使者を遣わして弔問し、厚くその不足を救った。銭氏(呉越)はもと呉の時代から敵国であったが、昪は天下の乱を厭い、簒国しようとするに及んで先に銭氏と和を結び、その捕らえていた将士を返すと、銭氏もまた呉の敗将を返し、以後好誼は絶えなかった。昪の客の馮延已は兵を論じることを好み大言を吐き、かつて昪に「田舎の翁がどうして大事を成せようか」と誚ったが、昪の志は呉の旧地を守ることにあって経営の略はなかった。しかし呉人もこれによって休息を得た。七年、昪は卒した。享年五十六。諡は光文肅武孝高皇帝、廟号は烈祖、陵は永陵。子の景が立った。