新五代史卷五十七 雜傳第四十五 趙延義

出自

  • 趙延義、字は子英、秦州の人。曾祖の省躬は数術に通じ乱を避けて蜀に至った。父の温珪は蜀の王建に仕えて司天監となり、建のために吉凶を占うたびに少しでも当たらねば詰責された。温珪は臨終に子孫を戒めて「数術はわが世業であるが、わたしは乱国に仕えて罪を得、幾度も死にかけたことがある。子孫でもし他の道で仕進できる者があれば、必ずしもこれを継ぐ必要はない」と言った。しかし延義は若くしてこの術をもって蜀に仕え司天監となった。蜀が亡ぶと唐に仕えて星官となった。

占術と周太祖への進言

  • 延義は三式に通じ、人相を見ることにも巧みであった。契丹が晉を滅ぼすと、延義は虜に随って鎮州に至った。李筠・白再榮が滿達を逐って漢に帰そうと謀った際、猶予して決しないでいたので、延義はことさら数術に託してこれを賛成させた。周太祖が魏から兵を率いて京師に入った際、太祖は延義に「漢の祚が短促であったのは天数であろうか」と問い、延義は「王者は天下を撫するに仁恩徳澤をもってすべきであるが、漢の法は深酷で刑罰も枉げられ濫用され、天下は寃を称えた。これが亡んだ所以である」と答えた。この時、太祖はまさに兵をもって蘇逢吉・劉銖の邸を囲みその一族を誅そうとしていたが、延義の言を聞いて悚然とし、これによって二家の一族を貸して助命した。延義は周に仕えて太府卿判司天監となり、病により卒した。