出自と占術
- 馬重績、字は洞微。その先祖は北狄の出であり、代々軍中に仕えた。重績は若くして数術を学び、太一・五紀・八象・三統の大暦に明るく、太原に居した。唐の莊宗が太原を鎮していた時、用兵征伐のたびに必ず重績に問うたが、重績の言は的中しないことがなかった。大理司直を拝したが、明宗の時に廃されて用いられなかった。
占術による予言的中
- 晉高祖が太原で朝命を拒むと、廢帝は兵を遣わしてこれを囲み、情勢は甚だ危急となった。高祖が重績にこれを占わせたところ「同人」の卦を得て、重績は「天火の象、乾の健と離の君の徳である。明なる者が南面してこれに向かう、天下を治める所以である。同人とは人の同じくするところであり、必ず我と同じくする者がいる。易に『乾乾を戰う、西北なり』とあり、また『相い見る乎離、離は南方なり』という。我と同じくする者は北より南へ向かうのではないか。乾は西北にあって戰い、これに勝つのは九月十月の交であろう」と述べた。この年九月、契丹が晉を助けて唐軍を撃破し、晉はついに天下を有した。重績は太子右贊善大夫を拝し司天監に遷った。
- 翌年、張從賔が反した時にも重績に占わせると「隨」の卦を得て、重績は「南、析木を瞻る、木は自ら続かず、虚しくして之を動かす、動けば隨いてその覆るを、歳まさに秋ならん、能く為すこと無し」と述べた。七月、從賔は敗れ、高祖は大いに喜び良馬・器幣を賜った。
暦法の改定と晩年
- 天福三年、重績は「暦象は王者が一気の元を正し万邦の命を宣べる所以である。しかし古今の記録には考審に多くの差異があり、宣明の気朔は正しいが星度は験がなく、崇玄は五星は得られても歳差が一日ある。宣明の気朔と崇玄の五星との二暦を相参じて合致させるべきであり、旧来の諸暦は皆天正十一月を歳首とし太古甲子を上元として用いてきたため、積歳が多くなるほど差が甚だしくなる。臣はこの二暦を合わせて新法を創り、唐の天寳十四載乙未を上元とし、雨水正月中氣を気首とする」と上言した。詔により司天監の趙仁琦・張文皓らに得失を考覆させたところ、仁琦らは「翌年庚子正月朔を重績の暦で考えると皆合致し誤りがない」と述べ、詔を下してこれを頒行し「調元暦」と号した。数歳にして差が生じ、ついに用いられなくなった。
- 重績はまた「漏刻の法は中星をもって昼夜を考え、一百刻を八刻六十分刻の二十で一時とし、時は四刻十分をもって正とするのが古来の用い方であるが、今その伝を失い、午正を時の始めとして未に四刻十分下って入るのを午としている。昼夜昬曉が皆その正を失っているので、古に依って改正すべきである」と述べ、これに従った。重績は卒した。年六十四。