新五代史卷五十七 雜傳第四十五 裴皥

出自

  • 裴皥、字は司東、河東の人。裴氏は晉魏の代より名族であり、燕に居る者を東眷、涼に居る者を西眷、河東に居る者を中眷と呼んだ。皥は名家の出で容止端秀、性は剛急直にして隠すところがなかった。若くして学を好み、唐の光化中に進士に挙げられ校書郎を拝し、拾遺・補闕を務めた。梁に仕えて翰林學士・中書舍人となり、後唐に仕えて禮部侍郎となった。

剛直な人柄と晩年

  • 皥は議論を好み、しばしば朝廷の欠失を陳べて権臣を斥けることが多かった。太子賔客に改まり、老いを理由に兵部尚書を拝し致仕した。晉高祖の時に起用され工部尚書となったが、再び老いを告げて右僕射を拝し致仕し、年八十五で卒した。太子太保を贈られた。皥は文学によって朝廷に久しくあり、宰相の馬胤孫・桑維翰は皆皥が禮部で放った進士であった。後に胤孫が知舉となって放榜し新進士を引き連れて皥に詣でると、皥は喜んで「門生門下に門生を見る」との詩を作り、世にこれを栄とした。維翰が既に宰相となって皥を訪ねた際、皥は迎えも送りもしなかった。ある人がこれを問うと、皥は「わたしが桑公に中書で会うのは僚であり、桑公がわたしに私邸で会うのは門生である。どうして迎送する必要があろうか」と答え、人もこれを当然とした。