新五代史卷五十七 雜傳第四十五 張允

出自と出仕

  • 張允、鎮州の人。若くして鎮州に仕え張文禮の參軍となった。唐の莊宗が張文禮を討った際、允は脱身して莊宗に降ったが獄に繋がれ、文禮が敗れて出獄し、魏州功曹となった。趙在禮に節度推官として辟され、滄・兗の二鎮を歴任して掌書記となり、入朝して監察御史となり、水部員外郎知制誥に累遷した。廢帝の皇子重美が河南尹として六軍を掌った際、允の剛介さを見込んで給事中を拝させ六軍判官とした。罷めて左散騎常侍に遷った。

駮赦論

  • 晉高祖が即位後しばしば天下に赦を出すと、允は「駮赦論」を作って献じた。その要旨は、管子の「凡そ赦とは小利にして大害、久しくしてその禍いに勝えず。赦なきは小害にして大利、久しくしてその福に勝う」との言や、漢の呉漢が疾篤の際、帝が望みを問うと「ただ陛下が赦をなさらぬことを願う」と答えたという故事を引き、赦を行うことは恩とならず、行わぬことも恩がないわけではない、罪あれば罰するのが本来だとする。水旱があれば徳音を降し過ちを宥め囚人を放って天の心に感じ災いを救おうとするのは誤りであり、罪ある者と無い者の訟えで罪ある者を赦せば無罪の者が寃を被る、これは災いを招く道であって救う術ではない。小人は天災に遭うたびに「国はまさに赦すだろう、我を捨てて災いを救うだろう」と喜んで悪を勧め合う、これは民に悪を教えることになる。天の道は善に福し淫に禍いするもので、悪人を赦して災いを福に変えれば、天もまた人が悪をなすのを喜ぶことになる。およそ天が災いを降すのは人主に嗜欲を節し勤儉に務め、鰥寡を恤み刑罰を正すよう警戒させるためである、との論であった。この時、晉高祖はちょうど臣下の直言を好んでおり、これを読んで大いに悦んだ。

晩年

  • 允は漢に仕えて吏部侍郎となった。隠帝が大臣を誅戮すると京師は皆恐れ、允は常に退朝しても家に帰らず相国寺に留まった。周太祖が兵を率いて京師に入ると、允は佛殿に隠れたが承塵が墜ちて卒した。年六十五。