新五代史卷五十七 雜傳第四十五 李鏻

出自と出仕

  • 李鏻、唐の宗室の子。伯父の陽は唐の咸通年間に給事中を務めた。鏻は若くして進士に挙げられようとしたが度々及第せず、河朔の間を渡り歩き、自ら清海軍掌書記と称して定州の王處直に謁したが礼遇されなかった。そこで緑衣を緋衣に替えて常山の李弘規に謁し、弘規は鏻を趙王王鎔に推挙し、鎔は従事として留めた。
  • その後、張文禮が鎔を弑して自立し、鏻を遣わして唐の莊宗に太原で聘わせた。鏻は口が達者で敢言の人物であり、密かに莊宗のために文禮を破る策を画策した。文禮が敗れると莊宗は鏻を支使とし、莊宗即位後は宗正卿を拝させ、李瓊を少卿とした。

宗正卿としての失態

  • 獻祖・懿祖の墓は趙州昭慶縣にあり、唐の国が建てられた当初、鏻と瓊は「獻祖宣皇帝の建初陵、懿祖光皇帝の啓運陵に台令を置くべき」と上言した。ところが縣中の無頼子で自ら宗子と称する者が百余人もあり、宗正には系譜の記録がなく調べようがなかった。ある民が寺に来て、代々丹陽・竟陵の台令であったと自称し、宗正の吏に多くの賄賂を贈ったため、鏻・瓊は詳しく調べぬまま彼を台令に補してしまった。民はすぐに絳幡を持って部曲を招き置き、民田百余頃を陵園の壖地と称して侵奪した。民が訴えたが官では決着できず、上聞に及んだ。莊宗は博士に唐の歴代帝陵の所在を問わせたところ、博士は「丹陽は今の潤州にあり、竟陵は唐の事ではない」と答えた。鏻は不学無知で九卿に備わる資格がないとして司農少卿に貶され、河中節度副使として出された。
  • 明宗即位後、鏻は故人として召し還され、戸部尚書に累遷した。鏻は大用されることを強く望み、かつて馮道・趙鳳に「唐家の故事では宗室は皆宰相となるものだ。今、天祚が中興したのだから旧典に従うべきである。鏻は不才とはいえ、かつて莊宗の霸府に仕え、藩邸にあった今上を見知っていた。才を論じ業を較べても人後に落ちるはずがないのに、長く班行に留め置かれるのは君にとって安心なことか」と述べたが、道らはその言を嫌った。
  • 後に楊溥の使者が鏻に会って事を語った際、鏻は安重誨に「楊溥は久しく帰国を望んでいる、朝廷が使いを遣わして諭せば帰順させられよう」と告げた。重誨はこれを信じ、玉帯を使者に与えて信とさせたが、久しく効果がなく、これによって鏻は兖州行軍司馬に貶された。
  • 鏻は廢帝と旧知であり、愍帝の時に兵部尚書として湖南に使いした際、廢帝の即位を聞いて喜び、必ず自分が宰相に用いられると考えた。帰途、荊南を過ぎ、高從誨に「士には否泰があるものだ、私は長く不遇であったが、今、新天子が即位すれば私は用いられるだろう」と言い、從誨に宝貨を求めて献上の用に供した。從誨は馬と紅装の拂二、猓□(底本欠字)の皮一を与え、鏻のために酒宴を設け、副使の馬承翰に「今、朝廷の臣で公輔の望みある者は誰か」と問うた。承翰は「尚書の崔居儉、左丞の姚顗、その次に太常の盧文紀である」と答えた。從誨は笑って左右に進奏官の報状を取らせ鏻に示すと、顗と文紀は既に平章事を拝していた。鏻は恥じ入り顔色を失って還り、結局その皮拂を献じたが、廢帝はついに用いなかった。
  • かつて李愚が太常卿から宰相となり、盧文紀がこれに代わって太常卿となった。文紀が宰相となると、鏻は太常卿を求め、拝命の際の中謝で「臣は分を越えて相の資に入りました」と述べ、朝士はこれを伝えて笑った。鏻は晉に仕えて太子太保に累遷し、漢高祖の即位後は司徒を拝した。数月にして卒し、年八十八。太傅を贈られた。