諫言と晩年の変節
- 何澤、広州の人。父の鼎は唐末に容管経略使であった。澤は若くして好学で歌詩に長け、進士に挙げられ洛陽令となった。唐の荘宗が狩猟を好みしばしば民田を踏み荒らすと、澤は密かに草陰に潜み荘宗の馬前で「陛下はまだ天下を一統し兵を休めておられないのに重税で民を疲弊させ軍食に充てている、田がまさに実ろうとするのに狩猟に耽り作物を害せば、民は租賦をどう納め吏はどう督することができようか、お聞き入れないなら馬前で臣を殺し後世に陛下の過ちを知らしめてください」と諫めた。荘宗は大笑いしてその日の狩りを止め、澤は倉部郎中を拝した。
- 明宗の時、たびたび上書して言事し、明宗が汴州行幸を望んだ際、大臣がしばしば諫めても聞かなかったが、澤も閤に伏して切諌し、明宗はこれを嘉した。吏部郎中史館修撰を拝した。澤は表面上は直言に見えたが内実は邪佞であり、内殿起居の際に一人だけ残り笏で額を叩き北を望んで「明主、明主」と叫んだこともあり、聞く者は嗤った。
- 五代の間、民は兵役に苦しみ、親の病に自らの股肉を割いたり喪に乳を割いたりして廬墓に籠もり賦役を免れようとする者が多く、戸部は毎年多数の蠲符(免除証)を発行し州県に紙を負担させ「蠲紙」と呼ばれていた。澤はこの弊害を上書し、明宗は詔で戸部の蠲紙をすべて廃した。
- 澤は宰相の趙鳳と旧交があり、しばしば私的に頼み給諫の官に就こうとしたが、鳳はその人柄を軽んじ太常少卿とすることにした。勅がまだ出ないうちに澤はこれを先に知り新官と自称して上章したため、章が中書に下ると鳳らは「澤は拝命前に新官と称し朝廷を軽んじた」として法で罪すべきと述べ、澤は太僕少卿致仕とされ河陽に住んだ。澤はこの時すでに七十歳であったがなお仕進を望み、婢の宜子を遣わして匭に上章させ秦王を皇太子に立てるべきと請うた。秦王はもとより驕慢で不軌が多く、ついに禍を成すのはこの澤の建言に始まる。晋の高祖の即位後、太常少卿に召されたが病で家で卒した。