魏博の乱での役割
- 司空頲、貝州清陽の人。唐の僖宗の時に進士を試みたが及第せず、羅紹威の掌書記となった。紹威が卒すと梁に入り太府少卿となり、楊師厚が天雄を鎮すると官を解いて依った。師厚が卒し賀徳倫が代わると、張彦の乱の際、判官の王正言に君臣を非難する奏を書かせようとしたが、正言は文才に乏しい上に刃を突きつけられ手が震えて書けなかった。彦は怒って正言を榻から引きずり下ろし「鈍漢が我を辱める」と罵り、誰が草せるか問うと書吏が「頲は羅王の時の書記です」と答え、馬を馳せて召した。
- 頲は乱兵に衣を奪われ弊衣のまま彦に見えたが、長揖して悠然とし筆を振るって文を成した。その言葉はいささか浅鄙であったが、彦はかえって分かりやすいと大いに喜び衣服・僕馬を与え、賀徳倫の判官とした。徳倫が魏博をもって晋に降ると、晋王は天雄を兼領し頲を判官のままとした。梁晋が黄河を挟んで対峙する間、頲はしばしば軍府の事を代行した。
- 頲は郭崇韜に憎まれ、崇韜はしばしばその収賄を言い立てた。都虞候の張裕も多く過失があり頲は法でこれを取り締まったところ、頲の甥が梁にいて家奴を遣わして召そうとしたのを、裕は梁への内通の疑いありとして家奴を捕らえ、荘宗はこの縁で頲の一族を誅した。