新五代史卷五十四 雜傳第四十二 李琪

出自と経歴

  • 李琪、字は台秀、河西燉煌の人。兄の珽は唐末に進士に及第し監察御史となった。母の喪に服す際、貧しく葬る費用もなく物を乞いながら葬った。珽は廬中で飢えて臥し、聞く者に哀憐された。服喪を終えると御史に復し、荊南の成汭に招かれ掌書記となった。
  • 呉が杜洪を囲むと、梁の太祖は汭と馬殷らに救援を命じた。汭は大船に数万の兵を乗せようとしたところ、珽は「一舟に千人乗せると兵糧も多く、緩急の際に動きが取れない、敵に縛られれば武陵・武安が後患となる、精兵を巴陵に屯し戦わず壁を守れば呉の兵糧が尽きて囲みは解ける」と献策したが、汭は聞かず果たして敗れ溺死した。
  • その後珽は趙匡凝に掌書記として招かれたが、太祖が匡凝を破ると珽を得て「これぞ真の書記だ」と喜んだ。太祖の即位後、考功員外郎知制誥に除されたが、太祖が旧臣を先に用いることを望まないと察して固辞し曹州の知事に出た。曹州は治めがたい地で前刺史十余人が事に坐して廃されていたが、珽は着任して治績を上げ、兵部郎中崇政院直学士に遷った。
  • 許州の馮行襲が病んだ際、行襲配下の牙兵二千は皆かつての蔡の卒であったため太祖は変事を懼れた。行襲は厳酷な性で従事の魏峻が切諫すると怒って冤罪で獄に下し誅そうとした。太祖は珽を遣わして行襲の留後を代行させ、珽は許州に着くと将吏を慰め、病篤い行襲が代人に詔を受けさせようとした時「頭を東に朝服を加えるのが礼だ」と言い自ら病床に赴いて太祖の意を伝えると、行襲は感泣して印を珽に授けた。珽は峻の冤を晴らして釈放し太祖に報告、太祖は「珽は私の望みを果たした」と喜んだ。
  • 折しも飢饉で汴・宋の間に盗が横行し曹州が特に甚だしく、太祖は再び珽を遣わして治めさせた。珽は賊を捜索し大校の張彦珂、珽の甥の李郊ら及び牙兵百余人をことごとく誅し、左諫議大夫を拝した。太祖が河北に行幸し内黄に至った際、珽に「内黄とはどういう意味か」と問うと、珽は「河南に外黄・下黄がある故にこの名がある」と答え、太祖が外黄・下黄の所在を問うと「秦の外黄都尉は今の雍邱、下黄は北齊に廃され今の陳留にある」と答えた。太祖は平生儒者を好まなかったが珽の博識に大いに喜んだ。友珪が即位すると右散騎常侍侍講を除され、袁象先の討賊の際に乱兵に殺された。

文才と宰相としての得失

  • 李琪は若くして進士に挙げられ博学宏辞にも及第、殿中侍御史に累遷し、兄・珽とともに文章で名を知られた。唐が亡び梁の太祖に仕え翰林学士となり、梁が四方を征伐する際の書詔はすべて琪が作り太祖の意にかなった。末帝の時、御史中丞・尚書左丞を経て同中書門下平章事を拝し、蕭頃とともに宰相となった。頃は畏慎周密な性、琪は倜儻で気概があり小節にこだわらず、二人は意見が食い違うことが多かった。琪は趙巖・張漢傑らと内々に結んで助けとしたため頃の言は多く退けられたが、頃も琪の過失を摘発し、琪が私吏に試官を得させようとした改竄が頃に発覚した。末帝は激怒し琪を流罪にしようとしたが巖らが救い、太子少保に罷められるにとどまった。
  • 唐の荘宗が梁を滅ぼすと琪を得て宰相にしようとしたが梁の旧臣に嫉まれ、太常卿・吏部尚書に留まった。同光三年秋、天下は大水で京師の食糧が特に乏しく、荘宗は朱書の御札で百官に上封事を命じ、琪は数千言を上書したが、その説は漫然として取るに足りないものだった。それでも荘宗は独りこれを重んじ国計使とした。まもなく荘宗が崩じ明宗が洛陽に入ると、群臣は柩前即位の旧儀を用いようとしたが、霍彦威・孔循らは国号改称と土徳の絶を求めた。明宗はその意を解せず尋ねると、答えは「荘宗は唐の姓を賜り昭宗の後を継いだ故に国を唐と号したが、今唐の天命はすでに絶えた、改号し自ら新たにすべきだ」というものだった。
  • 群臣が依違して決しない中、琪は「殿下は宗室の賢であり三世に功を立て、今兵を挙げて京師に向かうのは難に赴くと称してのこと、統号を改めれば先帝を路人と同じくすることになり、梓宮はどこに寄るべきか」と論じ、明宗はこれに従い先帝の喪を発してから即位した。琪は御史中丞となった。
  • 唐末の乱以来、朝廷の礼は壊れ天子は朝を視ず、入閤の制も廃れていた。明宗は五日に一度宰相とともに内殿に群臣を見る「起居」の制を詔したが、琪はこれを唐の故事に非ずとして五日起居を止め朔望の入閤を復することを請うた。明宗は「五日起居は群臣に頻繁に会うためのものだから廃せぬが、朔望の入閤は復してよい」とした。唐の故事では天子が日々前殿で群臣に会うのを「常参」、朔望に陵墓を思う心から便殿で会うのを「入閤」と称したが、乾符以後の乱で礼が欠け、この呼称が転倒し以後も正されなかった。
  • 琪はさらに「入閤には次対官が事を論ずる機会があるが、内殿起居は一見して退くのみで発言の機会がない」と建言し、明宗は起居の日に発言を許す詔を出し、百官の順序転対も詔された。樞密使の安重誨が専権を振るい、重誨の前騶が御史台門を過ぎた際、殿直の馬延が議論すると重誨は台門でこれを斬った上で奏上した。琪は中丞として重誨を畏れ弾劾できず、諫官の論列も懼れて宰相の任圜に先に重誨に伝えてから弾劾するよう頼んだが、それでも正言を憚った。
  • 豆盧革らが罷相した際、任圜は琪を相に推そうとしたが孔循・鄭珏がこれを阻んだ。琪は尚書右僕射に遷り、開元礼に基づき「僕射上事の日には中書門下が百官を率いて送上する」とした申状を出したが、太常礼院は「送上の文なし」と却下、琪はすでに新授を辞退しつつ再び上儀を求め、いずれも許されなかった。
  • 明宗が王都を定州で破って汴から洛陽に還る際、琪は百官を率いて上東門で迎えるべきところ偃師まで出て迎えることを請い、その奏章で「契丹の余党を敗り真定の逆城を破った」と述べたが、誤って定州を真定と記したため俸給一月を罰せられた。霍彦威が卒した際、琪が神道碑文を撰したが、彦威は元梁の将、琪も元梁の宰相であるため梁での事を「偽」と記さなかったことで馮道に非難された。琪は諾を重んじ人の善を称えることを好み、若くして文章で名を知られたことを自負し、貴顕になると牙板に「前郷貢進士李琪」と金字で刻み常に座側に置いた。持重を欠き進退をわきまえなかったため当時しばしば阻まれ、太子少傅として致仕し卒した。年六十。