新五代史卷四十九 雜傳第三十七 唐景思

誣告を撥ね返した将

  • 秦州の人。幼くして角觝(相撲)を善くし屠狗を生業としたが、後に去って軍卒となり指揮使に累遷した。唐の魏王繼岌が蜀を伐つ際、景思は蜀の固鎮を守っていたが、繼岌の兵が至ると城をもって降り興州刺史を拝した。晋高祖の時、貝州行軍司馬となり、出帝の時に契丹が貝州を攻め陥すと景思は趙延寿に得られ壕砦使とされた。契丹が晋を滅ぼすと景思を亳州防禦使とし、漢高祖の時に鄧州行軍司馬、後に沿淮廵検となった。漢の法は酷であり史弘肇が権を用い告訐によって人を殺すことを好んだ。景思の奴僕がかつて求めが叶わないと、すぐさま弘肇に見え景思が李景と交通し密かに兵甲を蓄えていると訴えたので、弘肇は吏に三十騎を率いさせ捕らえに向かわせた。景思の奴僕は吏に「景思は勇者です、捕らえられれば殺されます、そうでなければ逃げられてしまいます」と言ったが、吏が至ると景思は前に進み出て両手で吏を抱き冤を叫び、獄に赴いて自ら理を明かすことを請うた。吏が奴僕と景思を引き合わせ検証させると、景思は「私の家はここにあります、どうぞお調べください」と言い、銭十千を外部からの賄賂とし甲一属を私蓄兵の証としていたが、吏が捜索すると衣笥一つと軍籍・糧簿があるのみであった。吏はこれを憐れみ寛大に扱った。景思は械(かせ)をつけて京師に送られ自ら明かすことを請い、京師にいた景思の僕王知権はこの告発を聞くと弘肇に会い先に自ら獄に下ることで景思が反していないことを明かしたいと願い出た。弘肇はこれを憐れみ知権を獄に送り日々酒食で労った。景思がすでに械をつけ道に就くと潁・亳の人々が随行し京師まで来て弁明したので、弘肇はその奴僕を鞫問すると罪を自白し、すぐさま奏して奴僕を斬り景思を釈放した。
  • 後に世宗に従い高平で戦い、世宗は得た漢の降兵数千を効順指揮とし景思を指揮使とし、再び淮上に戍らせた。周師が淮南を伐った功により饒州刺史を領し、濠州行刺史に遷り、濠州攻めの兵で戦傷が重く卒し、武清軍節度使を贈られた。