新五代史卷四十八 雜傳第三十六 楊思權

鳳翔攻囲での寝返り

  • 邠州新平の人。梁に仕え控鶴右第一軍使となり、唐莊宗が梁を滅ぼすと夾馬都指揮使とした。明宗の時、秦王従栄が河東節度使となり馮贇を副としたが、思権は北京歩軍都指揮使としてこれを補佐した。従栄は日頃驕り不法な振る舞いが多く、この時宋王従厚が河南尹となり若くして謙恭で礼を好んだので、明宗は密かに人を遣わし従厚の善行を語らせて諷勉させたところ、従栄は不快に思い思権に「天下は共に河南(従厚)を賢としながら私を否定している、私は廃されようとしている、どうすればよいか」と告げると、思権は「あなたには甲士があり私もおります、何を憂うことがありましょう」と言い、死士を招募し利器を増して備えることを勧めた。馮贇はこれを患い明宗に事を聞かせると、明宗は思権を京師に召還したが、従栄との関係を理由にこれを責めることはなかった。後に右羽林都指揮使となり兵を率い興元に戍った。
  • 潞王従珂が鳳翔で反すると、興元の張虔釗が諸鎮兵を会して賊を討ち、諸鎮の兵が鳳翔を囲んだ。思権は城の西を攻め厳衛指揮使尹暉は城の東を攻め、両関城を破ったが、従珂は城に登り外の兵に自分は反逆者ではないと呼びかけ、その言葉は甚だ哀切で、聞く外兵はみな悲しんだ。虔釗の督戦が甚だ急であったため、軍士は兵を返し虔釗を逐い、思権はその機に衆に「潞王こそ真の我が主だ」と呼びかけ、軍士を擁して城に入り降った。暉は思権がすでに降ったと聞き、自軍にも甲を解かせたので、これにより諸鎮の兵はみな潰えた。思権と暉は従珂に入見し、思権は進み出て「私は赤心をもって殿下に仕えました、後事が成った暁には防禦・団練使の地位に処さないでいただきたい」と言い、懐から一紙を取り出し「私の姓名を記して証としてください」と願うと、従珂は即座に「可」と書いた。邠寧節度使に任じられ、廃帝の即位後すぐさま思権を静難軍節度使に拝した。後に右龍武統軍・左衛上将軍となり、天福八年に京師で卒し太傅を贈られた。