契丹を熟知した降将
- 范陽の人。劉守光の騎将であったが、唐莊宗が范陽を攻めた際、文進は先に降り壽州刺史を拝した。莊宗はこれをその弟存矩に属させ、存矩は新州団練使として山後八軍を統べた。莊宗が劉鄩と莘で対峙した際、存矩を召して兵を会し鄩を撃たせようとし、存矩は山後の精兵数千人を募り民に馬を出させ、民は牛十頭で馬一頭と換えたため、山後の人々はみな怨み兵も南行を喜ばず、祁溝関に至ると集まって乱を謀った。文進には幼くして美しい娘がいたが、存矩がこれを側室に求めると、文進は大将であることから拒みきれず与えたものの内心不満に思っていた。これにより文進は乱軍とともに存矩を殺し、新州を攻め返したが落とせず、武州を攻めてもまた落とせず、ついに契丹に奔り、契丹は文進に平州を守らせた。
- 明宗の即位後、文進は平州から衆数万を率いて唐に帰し、明宗は大いに喜び義成軍節度使とした。一年余りで威勝に鎮を移し同平章事を加えられ、入って上将軍となり、昭義に出鎮し安遠に徙った。晋高祖が立ち契丹と父子の約を結ぶと、文進は不安を懼れ、天福元年冬、その行軍司馬馮知兆・副使杜重貴を殺し李昪に款を送り、昪は兵を遣わし迎えた。文進は数鎮に居り頗る善政があり兵民に愛された。その出発に際し数騎に従い営中に馳せ入り将士に別れを告げ契丹を避ける意を伝えると、将士はみな再拝して訣別し、南に昪のもとへ奔り、昪は文進を天威統軍宣潤節度使とした。
- 文進は身長七尺、状貌偉然であった。契丹に奔って以来、しばしば契丹を導いて幽薊の間を攻略し人民を掠め、契丹に中国の織紝工作をことごとく教えたため契丹はこれによりますます強くなった。同光中、契丹はしばしば奚騎で塞上に出入りし燕趙を攻略し人々に安寧な歳はなかった。唐兵が涿州に屯し、歳ごとに瓦橋関から幽州まで糧を輸送し兵を厳しくして斥候を置いても常に略奪に苦しんだが、唐の患いとなること十余年、すべて文進の仕業であった。南に奔ってからは身を屈め迹を晦まし恭謹を務め、文士を礼をもって接し謙虚に振る舞い、語るのはもっぱら近代の朝廷儀制や台閣の故事にとどまり、兵事を語ることはなかった。後に左衛上将軍として金陵で卒した。