新五代史卷四十七 雜傳第三十五 劉景巖

延州の実力者とその末路

  • 延州の人。その家は元来富み貲財をもって豪俊と交遊できた。高万金に事えて部曲となり、その後丹州刺史となった。晋高祖が太原で挙兵すると唐廃帝は民七戸ごとに一卒を出させ義兵とし、延州節度使楊漢章が郷民を発し京師に赴かせようとした際、景巖は人を遣わしこれを激怒させ、義兵は乱れて漢章を殺し景巖を留後に迎えた。晋高祖の即位後、景巖を節度使に拝した。景巖の従事熊皦は人となり多智で、密かに景巖が跋扈して制しがたいことを察し、その異心を懼れ利をもって愚弄しようと考え、辺地は久しく安んじられぬと景巖に語り、保名享利の策を陳べ「邠涇には良田が多くその利は百倍、多く田を買い利を射て自らを富ますべきです」と勧めた。景巖はこれを信じ、一年余りで大いに収穫を得た。景巖が皦を京師に朝させると、皦はかえって景巖が辺地にいるべきでないので内地に移すべきと言上し、景巖は邠州に移された。皦は入朝して補闕を拝し、景巖はさらに保義に鎮を移し、まもなくまた武勝に徙った。景巖はここに至り皦が自分を売ったことを悟り、皦が自分の玉帯を隠したと誣奏し、皦は罪に坐して商州上津令に貶されたが、皦は景巖に害されることを懼れ道中で逃亡し山中に身を隠した。
  • 開運三年、景巖は武勝を罷め太子太師をもって致仕し華州に居ったが、契丹が京師を犯すと周密が延州に鎮し、景巖はもとの故郷に還った。ところが州人が密を逐い高允権を立て、允権の妻劉氏は景巖の孫女であった。景巖は良田・邸宅・僮僕が甚だ盛んで、党項の司家一族も牧畜をもって近郊に富み強かったが、景巖はこれと往来したため允権は頗るこれを患いに思った。允権の妻が歳時に帰省した際、景巖は「高郎は一県令にすぎないのにこの州を得た、それを保てると思うか」と語り、允権はこれを聞き悪感を抱き、しかも心では景巖の田宅を利したいと思い、ついに景巖が反すると誣告して殺した。年八十余。長子の行琮は徳州刺史であったが罷めて京師に留まっており同じく誅され、次子の行謙は允権の婦の父であったので、劉氏の子ではないと奏して免れ誅されなかった。