晋高祖の危機を救った副使
- 河中宝鼎の人。若くして青州の王師範に仕え、師範は学を好み書を万巻集め、彦詢にこれを掌らせた。彦詢は人となり聡悟で親信を得たが、師範が梁に降った後に殺されると、彦詢は帰る所なく魏に赴き楊師厚に客将として仕え、魏博が梁に叛き晋に入るとそのまま晋に留まって仕えた。莊宗が梁を滅ぼすと彦詢を引進副使とし、呉・蜀への使いはいつも旨に称い、徳州刺史・羽林将軍を歴任した。晋高祖が太原に鎮する際、廃帝はその貳心を疑い諸将の謹厚な者を選び補佐させ、彦詢を太原節度副使とした。後に高祖が疑いを受け転任させられ、命に拒み赴かないでおこうとして彦詢に問うたが、彦詢はあえて正面から言わず「太原の力が唐に敵しうるか否か、公はそれをよくお考えなさい」とだけ言い、高祖の反意はすでに決していたので彦詢もそれ以上言わなかった。高祖の左右は彦詢の異議を理由に殺そうとしたが、高祖は急ぎこれを止めて「副使一人だけは私が保証する」と言い、彦詢は免れた。この時、高祖は契丹に援兵を乞い、契丹の耶律徳光が高祖を太原に立て兵をもって河上まで送ると、彦詢は宣徽使としてしばしば敵陣を往来し、徳光もまたその人となりを愛した。翌年、威徳軍節度使を拝し再び宣徽使となり、また安国軍節度使を拝し、天福七年に鎮国に鎮を移した。大飢饉の年に政に恵愛があり、風病により罷めて右金吾衛上将軍となり、卒す。年七十四。太子太師を贈られた。