新五代史卷四十六 雜傳第三十四 郭延魯

父子二代の善政

  • 沁州綿上の人。父の饒は驍勇をもって晋に仕え、しばしば軍功を立て沁州刺史となること九年、政に恵愛があり州人は彼を慕った。延魯は槊を善くし将となり、累進して神武都知兵馬使となり、朱守殷の反に従い汴州を攻めた際、先登の功により汴州馬歩軍都指揮使となり、累遷して復州刺史となった。延魯は「私の父が沁州の刺史であったのは九年、民は今なおこれを慕っている、私は今幸いに刺史となれた、どうして父の志を忘れられようか」と嘆き、これより一層廉平をもって自らを励まし、民は大いに頼った。任期満了の際、州人は留任を乞うたが許されず、みな道を遮って号泣し引き留めた。天福中、単州刺史を拝し、官にて卒した。この時代、刺史はみな軍功によって拝任され、政を論じる者の多くはこれを問題とし、天下多事で民力が困弊する時に刺史の任を武夫に与え功を恃んで下を縦にすれば害が浅くないと考えていたが、延魯父子だけは善政をもって著しく知られた。

史論

  • ああ、五代の民はどうしてこれに堪えられただろうか。上は兵賦の急に供出させられ、下は剥歛の苛に苦しめられた。莊宗の頃より方鎮が朝廷に進献する事がやや始まり、晋に至っては数え切れないほどになった。都を助けるための添加の物は動もすれば千を数え、来朝・奉使・買宴・贖罪に至るまで進献から出ないものはなく、功臣大将が不幸にして死ぬと、その子孫はおおむね家貲をもって刺史の地位を求め、多く出す者は大州の善地を得た。天子に至るまでみな賄賂を事としていたのであるから、その民たる者はどうしてこれに堪えられただろうか。この時にあって延魯のような廉潔で法を循守する吏は、まことに得難く貴ぶべき存在であった。