新五代史卷四十六 雜傳第三十四 康福

霊武を治めた将

  • 蔚州の人。代々軍校を務め、福は騎射をもって晋王に仕え偏将となった。莊宗はかつて「我が家は羊馬を生業としてきたが、福の状貌は北人に似て豊厚、この地は羊馬に適している」と言い、福に相州で馬を牧させ小馬坊使とすると一年余りで馬は大いに繁殖した。明宗が魏から兵を返し相州を過ぎる際、福は小坊の馬二千匹をもって帰服し、明宗の軍勢はこれによりますます盛んになった。明宗の即位後、飛龍使を拝し磁州刺史・襄州兵馬都監を領し、劉訓に従い荊南を討ったが功なく還った。福は将として他に取り柄はなかったが諸戎の言葉に通じ、明宗はしばしば便殿に召し外事を訪ねると福はいつも蕃語で答えた。枢密使安重誨はこれを憎み常に福を戒めて「みだりに奏事すればお前を斬る」と言ったので、福は懼れて外任を求めた。
  • 霊武の韓洙が死にその弟澄が立つと、偏将李従賔が乱を起こし澄は表して朝廷に帥の任命を請うたが、重誨は霊武が吐蕃に深く入り込んでおり帥となる者は多くが害に遭うと考え、福を涼州刺史河西軍節度使に拝した。福は明宗に見え涙を流し重誨に押し出されたと訴えると、明宗は重誨を召し福を他の鎮に代えようとしたが、重誨は「福は刺史として功もないのに節旄を建てられる、あえて選り好みできる立場か」と言った。明宗は怒り福に「重誨がお前を遣わすのは私の意ではない、私は兵を遣わし護らせよう、憂うるな」と告げ、将軍牛知柔に兵で福を衛らせた。方渠に至ると羌人が果たして出て福を邀ったが、福は兵をもってこれを撃ち走らせた。青岡峡に至り雪に遭い、福が山に登り川谷の中の煙火を望むと、吐蕃数千帳が福の来ることに気づいていなかったので、福は兵を三道に分け不意を突いて襲い、吐蕃は大いに驚き車帳を棄てて逃げ、ほとんど殺し尽くしその玉璞・綾錦・羊馬を多く得たことで威声は大いに震った。
  • 福は霊武に三年在任し、毎年豊作で馬千駟を有し吐蕃は畏服した。事を言上する者は福に異志があるのではと疑い、重誨もまた福が必ず朝廷に背くだろうと言ったので、明宗が人を遣わし福に「私はどうしてお前を軽んじてお前が私に背くことを望むだろうか」と告げると、福は「国恩を受けること深く、死ぬことはあっても二心はありません」と答え、帰朝を願い出たが許されず、福の上表が再び上ると人もそれに従って至った。明宗は罪に問わず彰義に鎮を移し、静難・雄武を歴任し西面都部署を充てた。晋高祖の時、河中に鎮を移り、代わりを得て京師に還り卒した。太師を贈られ、諡は武安。福は代々北辺の出身であり、北辺では沙陀が尊ばれたことから常に自ら沙陀種と称していた。福がかつて病んで閤中に臥していた際、僚佐が見舞いに入り錦の衾を見て互いに顧み密かに戯れて「錦衾爛たり」と言うと、福はこれを聞いて怒り「私は沙陀種だ、どうして私を奚(東夷の意も掛ける戯言)と呼ぶのか」と言い、聞く者はこれを笑った。