養子から昭義軍節度使へ
- 亳州譙の人。父の元礼は軍校として梁軍に従い清口で戦死した。漢賔は人となり胆力があり、梁太祖はその父の戦死を憐れみ養子とした。この時、梁は東の兗鄆を攻めており、鄆州の朱瑾は軍中の驍勇な者を募り双雁を頬に黥れ「雁子都」と号したが、太祖はこれを聞き改めて勇士数百人を選び「落雁都」と号し漢賔を指揮使とした。漢賔が貴人となってもなお「朱落雁」と呼ばれた。漢賔は梁に仕え天威軍使となり磁・滑・宋・亳・曹五州の刺史・安遠軍節度使を歴任した。莊宗が梁を滅ぼすと漢賔は右龍武統軍に罷され、待遇は頗る薄かったが、後に莊宗がその邸に遊幸した際、漢賔の妻は容色があり才知に優れ、左右に侍って酒食を進め歌舞を奏したため莊宗は大いに歓び夜漏二更まで留まり、漢賔はこれより寵を得た。
- 初め漢賔が梁にいた時、朱友謙とともに太祖の養子であったが友謙が年長のため兄として仕えていた。梁の滅亡後、漢賔はしばしば友謙に書を寄せたが友謙は答えず、漢賔はこれを恨みに思っていたところ、後に友謙一族が誅された際、族人はみな漢賔の力によるものと見た。明宗が立つと、漢賔が莊宗に厚遇されたことを憎まれ右衛上将軍とされたが、安重誨が権を用いるとこれに依附し婚姻を結び、これにより再び昭義軍節度使となった。重誨の死後は上将軍に罷され、太子少保をもって致仕した。漢賔は将として戦功はなかったが政に臨んで法を守り施しを好み、人はこれを頗る愛した。清泰二年卒す。年六十四。晋高祖の時、太子少傅を贈られ、諡は貞恵。